第42話 保存される血
王命が下された翌日から、王女宮の空気は変わっていた。
侍女の数が増えた。廊下には新たな護衛騎士が配置され、扉の外には常に誰かの気配がある。表向きは“王女殿下の安全確保”。けれど、その実態が監視であることくらい、ローゼリアには分かっていた。
窓辺へ立ち、ローゼリアは外を見る。月はまだ戻らない。空には薄く雲が広がり、今にも雨が降り出しそうだった。王宮全体がどこか湿った静けさに包まれていた。背後では侍女達がドレスを整えながら、緊張したように囁き合っている。
「本日より護衛体制が変更となります」
「王女殿下のお傍には常時二名以上──」
“常時”。その言葉だけで十分だった。ルカリウスと二人きりにはなれない。ローゼリアは静かに目を伏せる。
胸の奥が疼いた。ルカリウスに触れたい。一緒に眠りたい。身体の奥で熱が渦を巻く。けれど同時に、右手首の薔薇も熱を持っていた。白い肌の上。まだ肌の色と見分けがつかないほど薄い痣が、じわりと熱を孕んでいる。
指先で触れると、そこだけ微かに熱い。ローゼリアは念の為、ミレイユに薄いレースの手袋を用意させた。まだ誰にも気づかれたくなかった。
その日の夕方。ローゼリアは研究塔へ向かった。理由はひとつだった。──ルカリウスのため。
監視が強まった以上、これから先、自由に会える時間は減っていく。人工血を飲まないルカリウスが渇きに耐えられなくなる前に──
(自分の血を……保存しておかなきゃ)
「ミレイユ、研究棟へ行きたいの。付き添ってくれるかしら」
ミレイユ以外の新しい侍女も護衛も、セラフィオンに会いに行くと伝えると、研究塔の入口より先へは付いてこなかった。
「ミレイユ、ここで待っていて」
「……はい」
ミレイユは素直に頷いた。けれど、その視線はローゼリアの手袋へと落ちる。
「リア様」
「なに?」
「無理だけは、なさらないでください」
ローゼリアは少しだけ目を瞬いた。
「心配性ね」
「リア様が無茶をするからです」
ミレイユは小さく笑って、頭を下げた。
石造りの長い螺旋階段を上がる。雨の匂いが微かに混じった冷たい空気が、静かに肌を撫でる。足音が石壁に吸い込まれていく。
観測室は静かだった。窓の外では降り出した雨音が低く響き始めている。星詠みの盤だけが、薄暗い室内で淡く光を放っていた。
セラフィオンは書類から目を上げると、ゆっくりとローゼリアに青い瞳を向けた。
「どうしました?」
「フィオに……お願いがあるの」
その声音に、セラフィオンの瞳が細められる。少しの沈黙のあと、ローゼリアはそっと口を開く。
「私の血を保存してほしいの」
「……何のためにですか?」
分かっていて聞いている。ローゼリアは少しだけ笑った。
「ルカのため」
その瞬間、観測室の空気が冷たく軋んだ。
「しばらく、ルカとは二人きりになれないと思うの」
ローゼリアは淡々と続ける。
「ルカは人工血を飲まないから……だから先に残しておきたいの」
まるで当たり前のことみたいに言う。セラフィオンは目を閉じた。愛している女が、別の男を生かすため、自分へ助けを求めている。それでも断れない。断れるはずがない。
(理由など関係ない。ただ、彼女が自分を頼った──それだけで)
「血の保存処理には、アストラの術式を使うのが一番鮮度を保てます」
「ええ」
「通常の保存血より王族性は維持できますが……あなたの負担は大きい」
ローゼリアは静かに笑った。
「少しくらい平気よ」
その言葉に、セラフィオンはゆっくり目を開く。
「“少し”では済まない」
初めて感情が滲んだ声だった。ローゼリアはわずかに息を止める。セラフィオンは立ち上がると、ゆっくりローゼリアへ近づいた。白い手首をそっと掴み、レースの手袋を外した。白い手首──そこに咲く、薄い薔薇。セラフィオンの指先が、ぴくりと揺れた。
「……いつからですか」
「私もさっき気づいたばかりなのに、あなたはすぐに気づくのね」
「なるほど……」
セラフィオンには分かる。色。熱。脈動。これは“咲き始め”ではない。既に根を張り始めている。
「皮膚の下で、少しずつ根を張り続けていたのでしょう」
盤の波形が微かに震えた。セラフィオンは静かに息を吐く。
「未来から戻って来たのは……誕生日の朝ですか?」
「ええ……」
ローゼリアは素直に答える。翡翠の瞳が揺れた。セラフィオンの指先が、薔薇の痣を静かになぞる。
「進行が早すぎる……」
「通常なら、ここまで表層へ浮かび上がるまで、もっと時間がかかるはずです」
盤の波形が、もう一度微かに震えた。セラフィオンはしばらく黙ったまま痣を見つめ、やがて静かに目を伏せた。
「この進行速度なら……」
「……一年以内か」
その言葉に、ローゼリアは目を瞬かせた。“死”という言葉は、まだ誰も口にしていない。けれど今、初めて輪郭を持って現実へ触れた気がした。視線を落とせば、白い手首には薄い薔薇が静かに咲いている。まだ淡い。けれど確かに、皮膚の下で脈打っていた。
セラフィオンはその痣を見つめたまま、しばらく動かなかった。研究者の目だった。症状を観測するみたいに冷静で──それなのに、どこか壊れそうなほど静かだった。
「まだ、時間はあるわ」
不意に、セラフィオンが別の問いを投げた。
「……覚えていませんか」
「何を?」
ローゼリアは首を傾げる。青い瞳が静かに揺れた。
「あなたが八歳の頃です」
「白薔薇の庭園で、私と会ったことを」
ローゼリアは瞬きをした。
「……何の話?」
その反応だけで十分だった。セラフィオンは小さく目を伏せる。
「そうですか」
雨音だけが観測室へ落ちる。セラフィオンは答えなかった。代わりに、そっとローゼリアの手首へ額を寄せる。まるで祈るみたいに。
「覚えていないなら、それで構いません」
ローゼリアは静かに目を伏せる。不思議と、その言葉を聞いた瞬間だけ胸が痛んだ。
(私はフィオに会っていたの……?)
青い瞳の、美しい少年。生まれた時から決められていた婚約者。いつかこの人と結婚するのだと、疑ったことすらなかった。幼い頃の自分は、その肖像を何度も見返していた。一度も会ったことがないはずなのに、彼の声を聞くとどこか胸が懐かしくなる。
きっと──あれが、初恋だったのだと思っていた。
あの青い瞳の少年もまた、王女の絵姿を見て同じような感情を抱いていたのだろうか。ふと、そんなことを思った。
(ルカのためにフィオを利用している私に……そんなことを言う資格はもうないわ)
そんな、過去の淡い感情を口にすることさえ──もう罪でしかなかった。




