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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第2幕

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第40話 五日ぶりの外

五日目の朝だった。


激しい雷雨は過ぎ去ったのに、空はまだ不安定なままだった。夜とも朝ともつかない光が王宮を包んでいる。月は、まだ戻らない。


ローゼリアは薄く目を開けた。身体の奥が、ずっと熱を持っている。


隣から、規則正しい呼吸が聞こえる。ルカリウスが眠っている。その腕は強く、逃がさないように抱きしめたまま離れない。乱れた銀の髪に露わになった首筋。そして幾つも残る噛み痕。ベチバーの香りの奥で、熱を持ったアンバーが甘く滲む。


ローゼリアはそっとルカリウスの左胸に手を置く。その瞬間、身体の奥で熱が反応した。繋がっている。触れただけで分かるほどに。鼓動も、渇きも、感情さえも。境界が溶けてしまったみたいだった。


五日間。まともに部屋から出ていない。時間の感覚はもう曖昧だった。吸血族は血だけでも生きられる。運ばれてきた食事にはほとんど手をつけていないのに、不思議と飢えは感じなかった。渇いていたのは、別のものだ。血を交わして、熱を交わして、何度も互いを求め続けた。それでもまだ、渇きは消えない。


「……リア」


いつの間にか、ルカリウスが目を開けていた。紫の瞳の奥に滲む金。以前なら、満月前だけ赤く揺れていた瞳。けれど今は、その奥に金が沈んだまま消えない。


「起こした?」


ルカリウスは答えず、指先でローゼリアの頬を撫でた。たったそれだけで、また身体が熱を持つ。理性より先に、身体がルカリウスを求める。


「……まだ苦しいか?」


満たされているのに、繋がっているのに、身体の奥で何かが削れていく感覚だけが消えない。右手首が熱い。まるで皮膚の下で赤い何かが脈打っているみたいに。


「……平気」


ルカリウスは声にせず笑う。その言葉の裏に潜む意味に気づいているようだった。


不意に、静かなノック音と同時にミレイユの声が部屋へ響いた。


「リア様。国王陛下がお呼びでございます」


閉ざされていた世界が、再び自分達を引き戻そうとしている。ルカリウスの腕が静かにローゼリアを抱き寄せた。


「……行くな」


この部屋にいる限り、自分達は繋がっていられる。王位も均衡も未来も、全部忘れられる──けれど。


「……行かなきゃ」


ローゼリアは笑った。少し、震えていた。


ルカリウスはゆっくりと手を離す。その瞬間、ローゼリアの右手首にうっすらと浮かぶ薔薇が、微かに脈打った。まるで契約が、現実へ牙を立て始めたみたいに。



◇◇◇



部屋の扉が開いた瞬間、空気が止まった。


王女宮の廊下。白い壁。金の装飾。磨かれた大理石。いつもと変わらないはずの光景なのに、そこにいた使用人達は、一斉に息を呑む。


ローゼリア・ヴァル・ノクティスは、美しい。ただ美しいだけではない。目を逸らしたくなるほど、“王族”だった。誰も声を出さない。けれど、その残り香と痕跡に気づかないはずがなかった。白い肌に残る赤紫の痕すら、どこか背徳的な装飾みたいだった。


ローゼリアは静かに前を向いたまま歩き出す。その隣を、ルカリウスがぴたりと続く。護衛騎士の配置ではない。近すぎる距離感。まるで少しでも離れれば、再び渇きが暴れ出すかのように。


侍女の一人が思わず視線を上げ、息を止めた。ローゼリアの首筋。白い肌へ薄く残る赤紫色をした痕。布地の多いドレスで隠している。けれど隠し切れていない。


ルカリウスは隠す気すらない。耳元にも鎖骨にも、噛み痕がくっきりと残っていた。隠すどころか、見せつけているようだった。


それは情事の跡というより──。まるで互いを喰らい合った痕だった。


若い侍女が慌てて視線を伏せる。王族の気配とは別の何かが、二人の周囲だけ濃密に淀んでいた。ローゼリア自身も分かっていた。視線、空気、囁き、全部。


五日間閉ざされていた世界が、今になって一気に押し寄せてきている。


「……見すぎよ」


ローゼリアは呟く。すると隣で、ルカリウスの気配がわずかに変わった。紫の瞳が、静かに周囲を見渡す。廊下の温度が、一段階下がった。


「見ればいい」


「ルカ」


呼ぶと、すぐ近くで視線が落ちる。近い。たった五日だったはずなのに、もうこの距離が普通になってしまっている。


「距離が近すぎるわ」


その言葉に、ルカリウスはしばらく沈黙した。


「……嫌だ」


ローゼリアが思わず目を瞬かせる。ルカリウスは普段なら、公の場で感情を出さない。けれど今は違った。


「離れると、渇く」


その一言に、ローゼリアの鼓動が強く鳴る。──自分も同じだったから。触れていないと落ち着かない。体温を感じていないと、身体の奥がざわつく。まるで境界が曖昧になってしまったみたいに。ローゼリアは視線を逸らした。


「……もう」


その時だった。廊下の向こうから、軽い足音が響く。


「うわ」


聞き慣れた声。エリオだった。キャラメル色の髪を揺らしながら現れたエリオは、二人を見た瞬間ぴたりと止まる。そして数秒後。


「……え、隠す気、ゼロ?」


吹き出した。


「いや待って、無理無理。思ったより酷い」


「エリオ」


ローゼリアが睨む。だがエリオは笑いを堪え切れていない。


「だってさぁ! 五日部屋から出てこないと思ったらこれ!?」


懐中時計を弄びながら肩を震わせる。


「うわぁ……王宮中の噂、本当だったんだ」


「黙りなさい」


「いやでも、それ見たら研究者さん卒倒しそう」


その名前が出た瞬間。ローゼリアの鼓動が、わずかに止まった。


同時に。廊下の空気が静かに冷える。視線を上げる。少し離れた回廊の先。


セラフィオンは、何も言わずこちらを見ていた。青い瞳だけが静かに揺れている。ローゼリアは、一瞬だけ息を止めた。


この重すぎる空気を作ってしまったことへの罪悪感。セラフィオンの想いを知っているからこそ、この姿を彼にだけは見られたくなかった。


ルカリウスの気配が、すぐ隣で低く沈む。まるで縄張りへ踏み込まれた獣みたいだった。エリオだけが、その空気に耐えきれず笑いを漏らす。


「……うわぁ、最悪」


誰も返事をしない。静かな廊下に、風の音だけが流れる。


セラフィオンの視線が、ゆっくりとローゼリアへ落ちる。首筋。左肩。手首。隠し切れない赤紫色の痕。そして何より──香り。ダマスクローズとホワイトムスク。その奥深くまで侵食している、ベチバーとアンバー。完全に混ざっている二人の香り。数日触れ合った程度では、ここまで染み込まない。


(盤を使わなくても分かる。──固定された)


セラフィオンの喉奥で、静かに呼吸が止まった。正式な儀式、満月、王家承認の契約……順を辿らず深く王族性が接続されるなど、本来ならあり得ないはずだった。しかし現実に、二人はここにいる。


「……フィオ」


ローゼリアが小さく名を呼ぶ。その声だけで、胸の奥が鈍く軋んだ。セラフィオンは静かに目を伏せる。本当は、とっくに気づいていた。ルカリウスを見る視線も香りも鼓動も全部。


それでも。──間に合うと思っていた。気づかないままでいたかった。世界は均衡を優先する。最後には必ず、正しい形へ戻ると。そう信じたかった。


「……大公?」


セラフィオンの背後に従えている研究員達の声に、セラフィオンはゆっくり顔を上げた。青い瞳が、静かにルカリウスを見る。その瞬間、ルカリウスの瞳の奥で金が揺れた。セラフィオンの呼吸が止まる。


──金。月に属する、王族性。


満月が存在しない今もなお、消えていない。よく見なければ気づけないほど微かな、紫と赤のオッドアイ。その奥に、金が光っている。赤が消えたわけではない。


──金が、上書きし始めている。


「……そうか」


小さな声だった。誰にも聞こえないほど静かな。けれどその声には、確かな絶望が滲んでいた。エリオだけが、その異変に気づく。


「研究者さん?」


セラフィオンは答えない。ただ、静かに理解してしまった。


ルカリウスの瞳に宿る金。消えない王族性。固定された均衡。そして月が消えた理由。全部が、一本に繋がってしまった。──世界が、"王"を認識した。その事実だけが、冷たく喉奥へ沈んでいく。


ローゼリアが、一歩前へ出ようとした瞬間。


「ローゼリア王女殿下」


重い声が廊下へ響いた。国王陛下の近衛騎士だった。


「国王陛下がお待ちです」


ルカリウスの指先が、無意識にローゼリアの腕を掴む。離したくないみたいに。その感覚へ一瞬だけ縋りながら、ローゼリアは静かに目を閉じた。


──甘い時間は、終わる。

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