第39話 婚約の再開
研究塔、最上階。
稲妻が空を裂き、轟音が遅れて観測室を震わせる。白い閃光が走るたび、星詠みの盤に浮かぶ波形が不規則に揺れた。月のない夜に、本来ならあり得ないほど激しい雷雨だった。
セラフィオンは静かに空を見上げる。
「……共鳴しているのか」
満月は消えた。それなのに、"何か"が異常なほど強くなっている。盤の中心では赤、紫、金、青の波形が脈打ち、互いを侵食するように絡み合い、最初からひとつだったかのように共鳴していた。歪みはない。理論上は完璧だった。完璧すぎるほどに。
本来、契約は段階を踏んで完成するはずだった。満月。血。王族性。儀式。そうして少しずつ固定されるはずだった均衡が、今夜一気に繋がってしまった。
雷鳴が落ちる。その瞬間、波形が大きく跳ねた。
「……そうか」
(ノクティスの飢えが、“月”を飛び越えたか)
互いを求める衝動そのものが、“月”を代替している。
(だから、月は消えたのか)
(──外側から均衡を繋ぐ必要が、もうなくなった)
セラフィオンは目を伏せる。
(均衡を守るためだったが……私が、繋げてしまった)
未来を視る者が未来へ触れた瞬間、可能性は収束を始める。見てしまった未来を、世界が答えとして固定し始める。だからこそ、アストラは王になれない。世界を一つに決めてしまうから。
雷光が再び観測室を白く染めた。盤の中央で、紫が赤へ溶け、そこへ金が重なる。セラフィオンは静かに息を止めた。あり得ないほど自然に。まるで最初からその形になることが定められていたように。
ノクティスの飢え。ルミナスの未練。そして──遥かな星から落ち、この地へ取り残された最初の観測者の孤独。帰れなかった星。その痛みだけが、今も血の奥に残っている。
「……皮肉だな」
アストラは、世界を壊さぬために観測者へ堕とされた。
ルミナスは、世界を愛したせいで未練を残した。
ノクティスは──飢えを抱えたまま、均衡を選んだ。
誰も幸福ではなかった。それでも血だけは続いていく。数百年の時を越えて──まるで帰れないまま。
その時、激しいノック音が観測室へ響く。
「アストラ大公。国王陛下がお呼びです」
「……要件は?」
「ローゼリア王女殿下とアストラ大公の婚約について──と」
セラフィオンは答えなかった。盤の中央では赤と紫が深く絡み合ったまま離れない。それでも王命は変わらない。
雷鳴が落ちる。誰より先に未来を見たはずなのに。誰より先に手を離したのも、自分だった。
「……わかった。すぐに向かう」
その声だけが、驚くほど静かだった。
外では激しい雨が降り続いていた。まるで世界そのものが、何かを取り返せなくなったみたいに。
◇◇◇
“月輪の間”には、重たい静寂が沈んでいた。長い卓を囲む貴族達の声は自然と低くなっていた。
「“月の消失”は前例がありません」
「王族性の歪みが原因では」
「双子誕生の時点で兆候はあったのです」
「……直系の王子が亡くなった時点で不安定だった」
囁きは、もう隠す気すらない。その中心で、アストレイオン王は静かに玉座へ腰掛けたまま、金の瞳だけで卓上を見渡していた。その視線の先、セラフィオンだけが一人異様なほど静かだった。
「アストラ大公」
宰相が口を開く。
「現在、“王位継承第一候補”はエリオ・ヴァル・ルミナス殿下へ移行しております」
「……異論はありません」
淡々とした答え。その声音に揺れはない。けれど卓の下で、星詠みの盤だけが微かに熱を持っていた。赤と紫。その奥へ金が絡み、青が静かに脈打っている。本来の三点構造とは別の波形が、今も深く結びついたままだった。
「問題はローゼリア王女殿下です」
卓上の空気が張り詰めた。
「月消失との関連性が疑われております。王族性の偏りを考えれば、監視は必要でしょう」
「……それに」
貴族の一人が言葉を区切る。
「アストラ大公がご健在である以上、かつての婚約を曖昧にしたままにはできません」
「王家とアストラの関係を、正式な形へ戻すべきでは」
視線が一斉にセラフィオンへ向いた。だが表情は変えない。
「それで?」
「国の均衡維持のためにも婚約継続が望ましいと判断しております」
均衡。その言葉に、セラフィオンは心の中で小さく笑った。もう遅い。均衡は既に、別の形で完成してしまっている。星詠みの盤は今も静かに熱を持ち続けていた。赤と紫は深く絡み合い、もはや引き剥がせる段階ではない。
雷鳴が遠く響く。誰も気づいていない。今この瞬間も、ローゼリアとルカリウスが、世界より深い場所で繋がっていることに。
「……ローゼリアには、まだ伝えるな」
不意にアストレイオン王が口を開いた。卓上の空気が止まる。
「陛下?」
「今、無理に動かせば余計に不安定になる。数日置け。その後、正式にローゼリアへ伝える」
短い命令だった。セラフィオンは目を伏せる。“数日”──その猶予が、あの二人へ与えられた時間であることくらい分かっていた。
(……例えこんな形でも、繋がっていたいと思うとは──愚かだな)
セラフィオンの心の内は、誰にも届かない。外では未だ、雷雨が王宮を打ち続けていた。
◇◇◇
“月輪の間”での評議は、一度では終わらなかった。
月が消えた夜以降、王宮では連日のように評議が開かれていた。王位継承、月の消失、均衡の維持。表向きはそう語られているが、実際は誰を王に据えるかが急速に進められていた。
「うう……胃が痛い」
月輪の間を出た瞬間、エリオは深く息を吐いた。長い白壁の廊下には、まだ重苦しい沈黙が残っている。その隣を歩くセラフィオンは、相変わらず表情を変えなかった。
「よく平気な顔してられるね……研究者さん」
「平気ではない」
即答だったが、声は静かすぎた。エリオは肩をすくめる。
「はいはい。そういう顔ね」
窓の外では空がまだ不安定だった。雷雨は止んだものの、月だけは戻らない。王宮全体が、どこか呼吸を忘れているみたいだった。
「……そういえば、リア。評議に全然来てなくない?」
「参加を命じられているのは私たちだけですから」
「まあ、それは知ってるんだけどさ──」
エリオはふと足を止め、ちょうど前を通りかかった王女宮の侍女を呼び止めた。侍女は驚いたように肩を震わせ、慌ててスカートの裾を整えると丁寧に頭を下げる。
「……ねぇ、リアは?見かけないけど」
「ローゼリア王女殿下は……もう三日ほど、お部屋から出られておりません……」
「え?」
一瞬、エリオは固まった。そして理解する。
「……っ、はは。そういうことね」
懐中時計を弄びながら、くつくつと笑う。
「最悪のタイミングでいちばん幸せそうなの、本当にあの二人らしい」
その言葉に、セラフィオンは反応しなかった。ただ静かに窓の外を見る。三日間、一度も共鳴が途切れていない。満月も、儀式も、正式な契約すら介さずに、ここまで王族性が固定されるなど──本来あり得ない。
セラフィオンはゆっくり目を伏せた。
(……そこまで深く繋がったか)
「研究者さんのそんな顔、珍しいね」
「別に」
嘘だった。誰よりも怖れている。世界が固定され始めていることを。そして何より──ローゼリアの心が、もう自分へ戻らないことを。
「どうする?止める?」
エリオは懐中時計を指差し悪戯に笑う。セラフィオンは答えなかった。
止められない。止める資格もない。かつて自分が望んだ未来。かつて自分が捨てた未来。その中心にいるのは、もう自分ではない。
セラフィオンは静かに目を閉じた。
外では風が窓を揺らしていた。月はまだ戻らない。




