第38話 均衡の再契約
“月輪の間”の評議が終わった頃には、空気そのものが変わっていた。
王位継承第一候補が変わった。その事実は一夜で城中を駆け巡り、廊下を歩けば侍女達の囁きが止まり、貴族達は探るように視線を交わし、使用人達ですら声を潜めていた。
──エリオ・ヴァル・ルミナスが、次代の王。
誰も正式な即位など口にしていない。けれど空気はもう決まり始めていた。そして同時に、ローゼリア・ヴァル・ノクティスという存在の価値も再び変わり始めていた。“王位継承者”ではなく、“王族性を揺らがす存在”として。
「……うんざりするわ」
ローゼリアは小さく吐き捨てる。
自室の窓辺で、ピンクゴールドのカーテンが風に揺れ、満月を失った夜空がその隙間から覗いていた。ルカリウスは壁際に立ったまま、何も言わない。今夜の沈黙は、いつもより少し重かった。
普段と同じように、銀のトレイに置かれた人工血入りのグラスを手に取り、数回で飲み干す。けれど、飲み終えた瞬間、違和感が襲った。
(……おかしいわ)
血を摂取したばかりなのに、得体の知れない飢えと渇きが身体の底から這い上がってくる。満月の夜に誰もが感じる習慣的な渇きとは、まるで違う。もっと深いところから、引っ張られるような感覚だった。
(これは……ルカの渇き?)
ローゼリアはゆっくりと歩き、ルカリウスの前に立った。紫の瞳が静かに向けられる。その奥に、一瞬だけ金が滲んだ気がした。評議の間で感じた、“世界に引かれる感覚”。その余韻はまだ、消えていない。
「ねえ……ルカ」
「……苦しい?」
「そんなことはない」
本当に問題ない時のルカリウスはそんな言い方をしない。ルカリウスの指先が、押さえ込むように強張るのをローゼリアは見逃さなかった。
「……嘘」
ルカリウスの眉が動く。
「お前の方が苦しそうに見える」
ルカリウスの指先がローゼリアの頬に触れた瞬間、空に稲妻が走った。月のない夜に急な雷雨。その光と同時に、胸の奥で何かが強く反応する。湿った空気の中でベチバーの香りが濃くなり、アンバーが甘く溶けた。その香りに触れた瞬間、もう無理だと分かった。
(この渇きは、何?──抑えられない)
渇きが自分のものなのかさえ分からない。身体だけが、迷わずルカリウスを求めていた。
「……私を繋いで」
次の瞬間、ローゼリアはルカリウスの耳たぶに牙を立てていた。腕を絡めるより先に、熱が流れ込んだ。甘い──。
こんな吸血衝動、今までに一度もなかった。なのに、止まらない。
繋がる感覚に、ローゼリアは息を止める。それだけで、もっと深くと身体が叫んだ。
「……っ」
ルカリウスの吐息が零れた。指先が強く握られる。
「……リア」
ローゼリアの指先がルカリウスの服を強く掴んだ。ボタンが千切れ、床に落ちる音がやけに響いた。足りない。もっと深く。境界が消えてしまうほどに。
「ルカ……もっと……もっと、ほしい」
翡翠の瞳が、抗えない熱の衝動で潤んでいく。
ルカリウスの腕が強くローゼリアを引き寄せる。背中へ回された腕が強くなる。触れ合った場所から互いの渇きが流れ込んで、鼓動が強く跳ねた。理性はもう、そこにはなかった。
「もう──止まれないからな」
唇が触れた瞬間、血より先に熱が流れ込んだ。絡み合う舌の上で二人は牙を立て合う。口の中で混じった血が、どちらのものなのかもう分からなかった。
寝台のまわりには、破られた衣類が散らばっている。余裕なんてどこにもなかった。寝具を掴む音と、乱れた呼吸だけが、薄暗い部屋に何度も落ちる。
「もっと……繋いで……溶かして」
「……もう、繋がってる」
繋がっていても、渇きは消えない。ローゼリアは口元に笑みを浮かべると、ルカリウスの上に跨り腰を揺らした。
「リア……これ以上は危ない」
ローゼリアはルカリウスの唇を深く塞ぎ、そのまま甘く血を奪う。乱れた銀の髪、滴る汗。その全部が──ローゼリアの内側を溶かすように熱を与えてくる。
「ルカ……まだ足りないの」
ローゼリアは腰を揺らしたまま、ルカリウスの鎖骨へ唇を滑らせ、そのまま静かに牙を沈めた。
「……っ」
ルカリウスの身体がわずかに震える。それはまるで互いを体内へ取り込む儀式のようで、血の奥まで侵食していく。
「このまま……殺してしまいそう」
喉の奥が焼ける。もう止まれない。止め方なんて、分からなかった。ルカリウスの骨の奥まで、自分の熱で満たしてしまいたかった。
口元だけは支配するように微笑んだまま、牙を深く埋める。ホワイトムスクが甘く滲み、体温が上がるたびダマスクローズの奥で香りが変わる。ベチバーとアンバーが絡み合い、呼吸するたびに互いの理性を鈍らせていった。
ルカリウスの腕に力が入る。逃がさないように。溶けてしまわないように。吐息混じりの声が漏れる。
「……このまま、リアの中に消えるのも悪くないな」
その言葉に、ローゼリアの瞳から涙が零れた。苦しいほど満たされているのに、どこまでも飢えている。
「私が……ルカの中に消えるの」
ルカリウスの紫の瞳が、熱に濁る。不思議と恐怖の色には見えなかった。
その瞬間、上に跨ったローゼリアの腰を掴んだまま、ルカリウスは身体を起こす。密着した熱がさらに深く噛み合い、ローゼリアの喉から甘い声が漏れた。
「……なら、骨まで喰らい尽くすか」
奥を深く突き上げながら、ローゼリアの左肩へ牙を立てる。強く吸い上げられた瞬間、ローゼリアの背筋が震えた。そのまま寝台に押し倒され、熱が巡る。互いを侵し、溶かし、混ざり合っていく。
「ん……っ、ああ……」
「リア……」
再び唇が重なる。血よりも熱く。渇きよりも深く。まるで互いを喰らい尽くすみたいに。
激しく身体が揺れ、内側に深く注がれる熱──。
その瞬間、右手首に熱が宿った。薄暗い寝台の上では気づけないほど微かに、ローゼリアの手首へ薄く薔薇の痣が浮かび上がる。
これは契約の完成なのか、それとも破滅の始まりなのか。
「……ルカ、愛してる……」
ルカリウスが腕の中に閉じ込めるように抱き寄せる。
窓の外では落雷と雨の音だけが、やけに激しく響いていた。月のない夜空が一瞬だけ淡く脈打った。




