第37話 月のない評議
ローゼリアが通されたのは、王宮最奥──“月輪の間”だった。本来なら、満月の夜にのみ開かれる評議の間。──そこに、月はなかった。
半円状に並ぶ黒檀の議席。中央に広がる白い大理石の床。そして、天井一面を覆う巨大な円形硝子。本来なら、そこから満月の光が評議の間を照らしているはずだった。
けれど今夜、天窓の向こうにあるのは黒く穿たれたような空白だけ。月光を失った“月輪の間”は、まるで別の場所のように冷え切っていた。
静寂が、重い。先に着席していた貴族達は誰一人として声を上げない。けれど、その沈黙の奥には確かな熱があった。恐怖。疑念。そして──期待。誰かが失墜する瞬間を待つ、濁った熱。
ローゼリアは玉座へ続く赤い絨毯を静かに進む。その後ろを、一定の距離を保ちながらルカリウスが歩く。ローゼリアが玉座左隣の椅子に座る。その背後に、ルカリウスが静かに立った。
「ローゼリア・ヴァル・ノクティス王女殿下」
宰相の低い声が響く。
「この異常事態について、王家として説明責任を果たしていただきたい」
責めるような声音ではない。だが、その言葉は既に“疑っている者”の声だった。ローゼリアは視線だけを向ける。
「説明?」
「満月の消失についてです」
宰相は間を置かずに続けた。
「古来より、月は王家の象徴。王族性の安定そのもの──」
ざわり、と空気が揺れる。
「ならば、その月が消えた今──王族の血に何かが起きたと考えるのが自然でしょう」
遠回しだった。けれど、誰もが理解していた。──ローゼリアを疑っている。
「ルシエル王子殿下が亡くなられた時点で、歪みは始まっていた」
「王族性の偏りだ」
「双子の王族性そのものが、禁忌だったのではないか」
抑えていた声が、少しずつ漏れ始める。ローゼリアは表情を変えない。慣れている。生まれた時から向けられてきた視線だった。けれど──。
「……くだらないな」
ルカリウスだった。後ろに立ったまま、それだけ言う。紫の瞳が、ゆっくりと貴族達を見渡す。それだけで、数人が言葉を呑み込んだ。
「護衛騎士ごときが口を挟むな」
誰かが吐き捨てる。ルカリウスは動じない。
「月が消えた程度で騒ぐとは。随分、脆い忠誠だ」
「なんだと、貴様──」
張り詰めた熱が、頂点へ向かう。近衛騎士がわずかに動き、ルカリウスへ警戒を向ける。
その瞬間だった。場違いなほど鮮やかな鎖の音。誰よりも軽い足取りで、金の気配が入ってきた。エリオだ。ローゼリアの視線が揺れる。
「やめなよ。こんなところで殺気立たないで」
張り詰めていた何かが、その一言でずれる。エリオはまっすぐ玉座右隣の席へ向かう。その背後には王室騎士団団長レオンハルト・グランディアが静かに立っていた。
「今日はさ、“誰が悪いか”を決める日じゃないでしょ?」
エリオは頬杖をついたまま細く笑う。笑っているのに、その金の瞳だけは静かだった。
「──“誰を王にするか”を決める日だ」
その言葉が落ちた瞬間。誰もいないはずの夜空で、淡い金色の光が一瞬だけ滲んだ。
「……今のは」
「光った……?」
「いや、しかし月は──」
貴族達の声が揺れる。ローゼリアは視線を天窓へ向けたまま、ゆっくりと指先を握りしめた。胸の奥が、ざわついている。嫌な予感だった。まるで世界そのものが、何かを決定しようとしているような感覚。
「静粛に」
宰相の声が、場を制す。ざわめきは止む。けれど、不安だけは残ったままだった。宰相はゆっくりと立ち上がる。
「満月の消失──これは建国以来、一度として記録に残されていない異常事態です」
何人かの貴族が頷く。
「よって我々は、王族性そのものに問題が発生した可能性を考慮せねばなりません」
「待ちなさい」
ローゼリアの声が落ちた。静かだけど通る声。翡翠の瞳が、まっすぐ宰相を射抜く。
「“可能性”だけで王家を裁くつもり?」
「現に月は消えております」
宰相は一歩も退かない。
「象徴が失われた以上、確認は必要です」
「確認?」
ローゼリアは薄く笑った。
「それとも──最初から結論は決まっているのかしら」
貴族達の視線が交錯した。
「……なら、試してみれば?」
エリオだった。全員の視線が集まる。エリオは頬杖をつきながら、退屈そうに笑っている。
「王族性が問題だって言うならさ。誰が“王に相応しいか”──この場で確かめればいい」
ざわり、と空気が揺れた。
「エリオ王子殿下、それは──」
「簡単でしょ?」
エリオは遮る。
「“月の祝福”が、誰に反応するか見ればいいんだから」
その瞬間。ローゼリアの背後で、ルカリウスの気配がわずかに変わった。ローゼリアは気づく。見えない何かが、この場の中心を探している。
ルカリウスの紫の瞳が、ゆっくり細められる。その奥で──金が揺れた。ローゼリアの呼吸が止まる。次の瞬間。天窓の向こう、黒く閉ざされていた夜空に淡い光が滲み始めた。まるで、月の代わりに“別の王”が空へ現れようとしているみたいに。
その時だった。
「……なるほど」
誰も気づかなかった。いつの間にか、“月輪の間”の扉が開いていたことに。
黒い髪に深い青の瞳。アストラ大公、セラフィオン・ヴァル・アストラ。彼は天窓を一瞥し、小さく目を細める。
「随分と愚かな結論へ急いでいるらしい」
その一言で、場の熱が一気に下がった。貴族達のざわめきが止まる。
“アストラ”の名が、沈黙の中を走った。建国以前から続く観測者の家系。王家より古く、星の理を読む一族。人前に姿を見せない彼は、このような会議に参加することもなかった。“死んだ”ともされていた。けれど、その深い青の瞳を見れば、彼が“アストラ”の血を継ぐ者であることを疑う者はいなかった。
「……アストラ大公」
宰相の眉が寄る。
「此度の異常について、何かご存知で?」
「少なくとも」
セラフィオンは淡々と歩きながら答える。
「“王族性の歪み”などという短絡的な話ではありませんね」
数人の貴族が顔をしかめる。
「しかし月は消えた!」
「建国以来、前例のない異常事態だ!」
「ならば王家に問題が──」
「浅いな」
全員が息を呑む。セラフィオンは感情を滲ませないまま、天窓を見上げていた。
「月が消えたから王が揺らいだのではない」
深い青の瞳が、静かに細められる。
「──“何か”が王として定まり始めたから、月が沈んでいる」
場が静まり返った。誰も、意味を理解できない。けれど、その言葉だけで本能がざわつく。ローゼリアの指先が微かに震えた。
(……定まり始めた)
「アストラ大公」
宰相の眉がわずかに動く。
「曖昧な言葉で場を混乱させるのは、おやめいただきたい」
「混乱しているのはあなた方でしょう」
セラフィオンは視線すら向けない。
「月は象徴に過ぎない」
「本来、“王族性”とは空に浮かぶ月一つで測れるほど単純なものではない」
──カツン。
その時。玉座奥から、硬い靴音が響いた。貴族達が一斉に頭を垂れた。ローゼリアの瞳が揺れる。
玉座奥の扉。燃えるような赤の気配。揺れる赤髪。金の瞳。その瞳だけが、月光を失った夜でも輝かしく光っていた。
現れたのは、深紅の外套を纏った男。アストレイオン・ヴァル・ノクティス。現王にして、ローゼリアの父。月を失った今なお、この国の中心に立つ男だった。
誰も口を開かない。アストレイオン王は静かに玉座へ座る。その視線が、一人ずつを見渡した。宰相。貴族達。エリオ。セラフィオン。ローゼリア。そして最後に──ルカリウス。
ほんの一瞬。アストレイオン王の金の瞳が細められる。ルカリウスは無言のまま片膝をついた。
「……騒がしいな」
それだけで、“月輪の間”のざわめきが完全に消えた。アストレイオン王は肘掛けに頬杖をつきながら、ゆっくりと天窓を見上げる。月はない。ただ、黒い空白だけが広がっている。
「アストラ大公」
アストレイオン王が口を開く。
「お前は、“何が起きている”と見る」
セラフィオンは短い沈黙のあと答える。
「世界が、“均衡の中心”を定め始めています。……いえ、選定はすでに終わっている。固定が始まった、と言うべきでしょう」
見えない何かが、この場の中心を探している。ローゼリアの背後。ルカリウスの気配が、わずかに揺れる。
まるで全てを知っているかのように、アストレイオン王の視線が鋭くルカリウスへ向いた。アストレイオン王は一度だけ息を吐き、場を制す。
「今宵、王位継承を決定することはない」
貴族たちのざわめきが広がる。アストレイオン王の金の瞳が、静かにエリオへ向く。
「──だが。月が失われた今、王族性の再観測は必要だ」
「次代候補筆頭として──エリオ・ヴァル・ルミナスを正式に王位継承第一候補とする」
月を失った夜でも、その金の瞳だけは揺らがなかった。




