第4話 紫が赤を拒む夜
「今日は勝負の日だから、一日エスコートよろしく」
そう告げて、ローゼリアは微笑んだ。声音は軽いが、翡翠の瞳だけは、未来を見据えていた。ルカリウスは小さく眉を寄せた。
「……何か作戦でも?」
「ただ、見守っていて」
それだけを言い放つと、ルカリウスの手に自分の指先を重ねる。触れた肌の熱だけでわずかに汗ばむ。ホワイトムスクが甘く弾けた気がした。
ルカリウスは小さく息を吸った。それだけで全てを見透かされているような気持ちになる。
ルカリウスは黒いドレスの胸元に輝く紫水晶をじっと見つめ、一瞬だけ何かを言いたそうな表情を浮かべ、唇を閉じた。
「……仰せのままに」
二人は並んで歩き出した。白と金の宮殿に、薄い午後の光が差し込む。重いヒール音が長い回廊に響き渡る。それは祝宴へ向かう足音ではなく、戦場へ向かう足音のようだった。
◇◇◇
やがて、大広間の重厚な扉がゆっくりと開く。ざわめきが波のように広がり──次の瞬間、ぴたりと止んだ。
「第一王女、ローゼリア・ヴァル・ノクティス王女殿下のご入場です」
高らかな宣言が、天井画の下で幾重にも反響する。
細かな銀糸と宝石をちりばめた黒いドレスがシャンデリアの光を呑み込み、夜空の星のように瞬いた。胸元で揺れる宝石は、ノクティスを象徴する赤ではない。隣に並ぶ護衛騎士の瞳と同じ紫だった。
(──赤ではない)
最初に気づいたのは、玉座の下で待つ婚約者──北境公爵家嫡男、カシアン・ヴェルモントだった。
カシアンの視線が上から下へゆっくりとローゼリアをなぞる。まるで商品の品質を見定めるような目線に寒気が走る。
ルカリウスの瞳がわずかに殺気を宿した気がした。その瞬間、カシアンの視線がローゼリアの隣に立つルカリウスに向くと、一瞬空気が凍った。
「王女殿下。お誕生日、おめでとうございます」
カシアンは何も見なかったかのように、静かに微笑む。
「……私の贈ったドレスは、お気に召しませんでしたか?」
穏やかに整えられた声音。自分の手中にあるはずの王女が、予定と違う動きをしたことへの不快感を隠すような温度だった。
ローゼリアはカシアンへ視線を向けると、上に立つものの声で告げる。
「今日は、ルカリウスと色を合わせたかったの」
その一言に、ルカリウスの指先がわずかに動いた。
燭台の炎がひとつ、揺らぐ。カシアンの瞳が、初めて細められた。黒と銀。そして、紫。並び立つその姿は、最初から一枚の絵として描かれていたかのように完成している。
「護衛と色を合わせるとは……今日が何を意味する日なのか、ご理解されていないようだ」
柔らかい口調だが、“護衛”という言葉だけが、強く落ちる。広間のざわめきが、かすかに波打った。
ローゼリアは何も知らない顔をしながら、首を傾げる。
「今日は、私の誕生日よ」
「誰と並びたいかくらい、選んでもいいでしょう?」
楽団の旋律が、一瞬だけ遠のいた気がした。カシアンは子供の我儘を聞くような表情を浮かべると、軽く息を吐いた。
「王女殿下は、その高貴な血筋の重みをお忘れのようだ」
柔らかな声音の奥に、牽制だけが静かに滲んでいた。ローゼリアは、そっとルカリウスの腕に指先をかける。黒と紫が、静かに重なる。
「高貴だからこそ、選べるのよ」
カシアンの表情がほんの刹那だけ硬くなった。それをすぐに飲み込むと、一歩距離を詰め白い手袋に包まれた指先を差し出した。
袖口で、深紅のルビーが燭台の光を受けて鋭く瞬いた。ノクティス王家の色。本来なら──ローゼリアと並ぶはずだった赤。
「では……最初のダンスを、私にいただけますか?」
“高貴だからこそ選べる”その言葉を、カシアンは身分で測るような目で見返した。身分に縛られ身分に殺された未来が脳裏を掠めた。ローゼリアはゆっくりと瞬きをすると、声色を変えずに返事をする。
「もちろん」
ほんの一呼吸分、間を置くと作った笑顔を向けた。
「ダンスの時間だけは」
その“だけ”が、婚約という未来を薄く切り裂く。紫が、静かに赤を拒んだ。隣で、ルカリウスの指先に力が入る。言葉はなくても、ローゼリアにはその意味が届いた。
カシアンはそれも見て笑う。
「では──お手をどうぞ、王女殿下」
広間の視線が一斉に集まる。ローゼリアは一瞬だけ、ルカリウスを見た。翡翠の瞳が、ほんの一瞬熱を含む。
(──これは作戦よ)
言葉にならない合図。そして、ルカリウスから離れると、ゆっくりとカシアンの手に指先を重ねた。燭台の炎が、二人の影を床へ落とす。音楽が次の旋律を奏で始める。
(──必ず、やり遂げてみせる。……たとえ、歴史に残る悪女と罵られることになったとしても)
◇◇◇
広間の中央。磨き上げられた大理石の上で、二人は向かい合った。シャンデリアの光が、黒いドレスに散りばめられた宝石に反射する。
形式に従い、カシアンの手がローゼリアの腰へ置かれた。逃げ道を塞ぐように背へ回る指先の強さに圧を感じる。
「この後、私たちは婚約の薔薇を刻むのだと、ご理解いただいていますか」
「……ええ」
(婚約の薔薇……それを刻む儀式をしてしまうと、もう戻れない)
ローゼリアは微笑みを崩さない。旋律に合わせ、優雅に一歩を踏み替える。黒い裾が弧を描き、光を吸い込んだ。
「婚約、やめようと思うの」
旋律に溶けるように落ちた言葉。カシアンは完璧な、社交用の笑みを浮かべた。
「ご冗談を」
「本気よ」
ローゼリアは曲に合わせステップを踏みながら、カシアンの耳元に顔を寄せた。燭台の光が翡翠の瞳を照らし、その奥に宿る静かな炎を浮かび上がらせる。
「私、愛人をたくさん持ちたいの」
ささやきに近い声でも、ローゼリアの声はよく通る。近くを回る数名が、確かに聞いた。
(今は、悪女でいる方がいい)
広間中央だけ、静まり返っていた。好奇と驚愕が、波紋のように広がっていく。 どう思われてもいい。ルカリウスの命より重いものなど、ここにはないのだから。カシアンの瞳が、はじめて完全に冷えた。
「……王女殿下、公の場で何を」
ローゼリアは、くすりと笑う。
「だって、吸血族の王女だもの?」
無邪気な声音に乗せて落とす理屈は、刃のように鋭い。
「愛も血も、ひとつに縛られるなんて退屈でしょう?」
「私を試しているのですか?」
「もう決めたの」
ローゼリアは首を横に振った。二人の間には、音楽とは別の旋律が流れている。カシアンは一度、呼吸を整え、再び微笑んだ。
「……なるほど。では私も、その愛人の一人として席をいただければ」
それでもカシアンの声は乱れなかった。形を変えてでも繋ぎ止めようとする姿勢に、近くの貴族たちが息を呑む。ローゼリアは、ほんの少しだけ首を傾げる。
「残念だけど」
ほんの一瞬、微笑みが深くなった。
「あなたは候補に入っていないわ」
遠くでは旋律が続いているのに、中央の円だけ静寂が生まれていた。
「……理由を伺っても?」
声色は穏やかなままだった。ローゼリアは、そっとカシアンへ顔を寄せる。これは侮辱ではない。──退路を、焼く。
「顔が好みじゃないの」
「あなたを見ても、胸がときめかないわ」
これは王女の言葉ではない。分かっている。けれど、王女らしく微笑んでいるだけでは、未来は変わらない。品位も、婚約者の誇りも。壊せるものは、今ここで壊す。
(いくらでも悪女になってやるわ。──未来が変わるのなら)
カシアンは微笑んだまま、ゆっくりと手を離す。笑みは崩れない。指先だけが、白くなるほど強く握られていた。
「顔が好みではない、とは……」
「その程度で、婚約を壊せると思われたのですね」
覚えた、という執着が滲む声音にローゼリアは一歩だけ距離を取る。黒い裾が、床を撫でた。
「好みは大切でしょう?」
「血を与えるのなら、なおさら」
黒い薔薇のような悪女の笑み。砕かれた盤は、もう元には戻らない。




