第5話 盤外の観測者
ローゼリアの視線は、玉座へ向いていた。
アストレイオン・ヴァル・ノクティス。この国の頂点に立つ、吸血族の最高峰。絶対的権力者だ。
玉座に腰かけたまま腕を組み、静かに娘を見下ろしている。ただ──測っている金の瞳。
ローゼリアはゆっくりと一礼し、玉座へ歩み寄った。ざわめきが広がりかけ、すぐに消えた。王の前では、誰も声を上げない。この広間は、アストレイオン王の呼吸で保たれている。
「国王陛下。発言をお許しいただけますか」
「何だ、ローゼリア申してみよ」
「私は、カシアン・ヴェルモント公子とは婚約いたしません」
「彼は、北境の組織と密かに通じています。証拠は私の書斎の封印書簡に保管しています」
アストレイオン王の目が、細まる。娘を見る目から報告を受ける、統治者の目へと変わった。
壁際のミレイユが、ほんのわずかに頷いた。王命が下れば、すぐに書簡は運び出される。ローゼリアは視線だけで応えた。
(今度は、間に合ったわ)
「……確かか」
低く威厳のある声色。父ではなく王の声だ。
「確かです」
アストレイオン王の視線が、カシアンへと落ちる。公爵家か、王家か。北境か、玉座か。アストレイオン王は、沈黙のまま天秤を傾け告げる。
「本日の婚約の儀式は──延期とする」
シャンデリアの光の下、広間が一瞬だけ静止した。次の瞬間、ざわめきが爆ぜた。貴族たちの視線が一斉にカシアンへ向かった。
カシアンは崩れない。袖口で、深紅のルビーのカフスが光を反射する。祝いの赤が今は、血の色に見えた。
アストレイオン王は続ける。
「北境との不穏な繋がりが事実であれば、王家として見逃しはできぬ」
「調査が終わるまで、身柄は王宮内にて拘束する」
その時。ふわり、と甘い香りが落ちる。ベルガモット、花蜜と粉砂糖の甘い気配。
「リア、やりすぎ」
振り返ると、キャラメル色の髪が揺れた。エリオ・ヴァル・ルミナス。王族の血を引くローゼリアの従兄弟だ。目が合うとエリオは困ったように笑った。まるで最初から、こうなると分かっていたみたいに。
「エリオ」
「……今は、あれだし。リア、あとでまたね」
小声でそれだけを告げ、エリオはひらりと手を振った。
◇◇◇
広間のざわめきがまだ収まりきらぬ中、近衛騎士に囲まれたカシアンはゆっくりとローゼリアへ視線を戻した。その動きは優雅で、乱れがない。何も奪われていない者の所作だ。
「王女殿下は、随分と成長なさったようだ」
穏やかで整った声音に、愉しんでいるかのような響きが混じる。瞳には、敗北の影がない。
「弁明は後日、正式に行ってもらう」
アストレイオン王の声が落ちた。カシアンは肩から息を吸い込んだ。
「私が黒幕だと、本気で思われていますか?」
抗議でもなく問いだけを残す。追い詰められた者の声音ではなかった。
沈黙を置き、見透かすような視線がルカリウスへと向けられた。社交の仮面は外れている。
「……お前はただの駒だ」
囁くように小さな声に刃を込める。祝宴のざわめきが、一段低く沈んだ。ルカリウスは無言のまま視線を逸らさない。
カシアンは、知っている者の余裕の表情を浮かべながら口角を上げた。
「王女殿下が守ろうとしている騎士は、すでに“選ばれている”」
理解するより先に、冷たい滴だけが胸へ落ちる。近衛騎士に挟まれても歩みは乱れない。そのまま重い扉が閉じる。
(選ばれている──誰に、何に?)
ローゼリアの胸の奥へ、恐怖とはまた違う冷たい感覚が沈む。盤のどこかに、まだ見えていない駒が置かれているという感覚。そして、その中心にいるのは──ルカリウス。
──拍手。
一定の間隔。寸分も狂わない。一拍。二拍。三拍。そこで、ぴたりと止んだ。
広間の視線が、ゆっくりとそちらへ吸い寄せられる。燭台の光が届ききらない柱の陰に、ひとつ“青”が立っていた。
深い青の上質な衣に艶のある黒髪。見透かすような冷えた青い瞳。そこにいるだけで、祝宴の空気がわずかに温度を失う。美しい、と思うより先に、異質だと感じた。
「見事な一手でした、王女殿下」
低く澄んだ声が、玉座まで迷いなく届く。アストレイオン王は何かを察したような金の目でその男を見つめながらも、口を噤んだ。
その冷えた空気に、ローゼリアの背筋へ細い震えが走った。知らない顔、知らない声。知らないはずなのに、胸の奥だけが知っていると告げていた。
「盤が動きましたね」
男は、彫刻のように微笑んだ。
ルカリウスの気配が変わる。半歩、前。ローゼリアと“青”のあいだへ、影のように身体を滑り込ませた。守るための境界線が引かれる。
「……誰だ」
(……どこかで見た気がする)
短い問い。これ以上は踏み込むなと告げる声。青い瞳がルカリウスを一度だけ測り、すぐにローゼリアへ戻る。
「ただの観測者ですよ」
穏やかな声音。視線はまた、ルカリウスの肩越しにローゼリアへ向けられたまま。
「あなたの未来は、まだ分岐している」
その一言で、広間の温度が半度落ちた。“分岐”を言い切る声だった。占いでも予感でもないその声に、ローゼリアの背筋が冷えた。
ローゼリアが問い返すより早く、青は半歩、影へ退く。人の肩が揺れ、視線が交錯する。
次に見たとき──そこには、もう何もなかった。
残ったのは、冷えた残像だけ。そして──今この瞬間も、どこかで“見られている”感覚だった。




