第3話 血の約束
ミレイユの足音が大理石の廊下へ遠ざかり、静寂が落ちた。朝の光が、二人の間を細く横切る。
ルカリウスは動かない。腕を組んだまま、ただまっすぐにローゼリアを見ていた。その瞳は先ほどより深く、黒を纏った王女の中に変わった“何か”を探していた。
「……何を考えているんですか、王女」
穏やかな声音の奥に刃のような警戒がある。ローゼリアはさらに一歩近づく。近づいた瞬間ふわりと掠める乾いたベチバーと、冷えた木の匂い。
(ルカの匂いがこんなにも……安心する)
抱きつきたい衝動を押さえつけ、そっと指先を伸ばすと銀の髪がかかる首筋に触れた。骨ばった感触の奥に、温かな体温と確かな脈の音。それだけで胸の奥が苦しい。
ほんの一瞬、二人の呼吸が重なった。影が睫毛の縁に落ち、瞳の紫が深く沈む。触れた指先の下で、ルカリウスの脈がわずかに速まる。
「これは命令ではないわ。あなたが選んで」
その言葉が落ちたあと、世界から余計な音が消えた。窓の外で風が枝を揺らす音だけが、やけに遠い。ルカリウスは何も言わないまま、ただローゼリアを見ていた。
ルカリウスの左目が、うっすらと赤を帯びる。満月前でもないのに、渇きが反応していた。
「もう一度言うわ」
「私の──愛人になりなさい、ルカ」
まるで高所から手放された言葉のようだった。ルカリウスの片眉がわずかに上がる。警戒と皮肉、そして抑えきれない興味が瞳に浮かんだ。
「婚約者がいるのに──愛人ですか?」
距離を測る問いに、ローゼリアは目を逸らさない。ルカリウスの瞳の奥だけが、静かに揺れた。ただ──“選ばれた”という事実が、ゆっくりと深い場所へ沈んでいく。
その沈黙の中、ローゼリアはドレッサーへ歩むと、一番上の鍵のついた引き出しから、蛇革の黒い箱を取り出した。そして、ルカリウスにその箱を向けると、迷いなく蓋を開いた。
その箱だけが夜よりも深い影を落とし、内側には角のように湾曲した真紅の血印が光を吸い込んでいた。白壁に淡い赤の反射が揺れ、血が呼吸しているみたいだった。
「これはノクティスの血印。王族性を他者へ分け与える王家の遺物よ」
血印の赤い光に視線を落とすルカリウスの瞳が、その禍々しい光を吸い込んだ気がした。
「ただし、血の共鳴が必要なの」
「だから愛人……古い血の儀式ですか」
ルカリウスは瞳を細めると、口を開いた。意味を瞬時に理解したような口調だった。
「ええ。血の共鳴──形式だけの愛人とは違うわ」
ルカリウスの目線が止まった。ルカリウスが一歩踏み出す。ベチバーにほんの少し重なるアンバー。体温が上がっているのが香りでわかる。影が黒いドレスへ重なった。
「一年後、あなたは王座に手を伸ばす」
「……問題でも?」
「問題なのは──その未来で、あなたが死ぬことよ」
ルカリウスの口元が笑う。目は笑っていない。
「予知の真似事ですか?」
ローゼリアは答えない。赤く染まっていく白い雪。動かなくなった紫の瞳が脳裏によぎる。
「あなたが雪の上に倒れる未来を、私は見たの」
ローゼリアの声がわずかに震える。ルカリウスの指先が、ぴくりと動いた。
「……俺が死ぬ未来を、王女が知っているとして、なぜこんな契約を?」
「あなたを王座へ届かせるためよ」
「なぜ、そこまで……」
ルカリウスは言いかけて、口を閉ざした。
「あなたは、私が護衛に選んだ男だってことを忘れたの?」
その言葉が、ルカリウスの奥深くへ沈む。
「私は、この婚約を壊したい。自分の未来を取り戻したいの」
声に揺らぎはない。ローゼリアは続ける。
「たとえ私が死んでも、血印が発動すればあなたは王座へ届くわ」
少し考える間を置いてから、ルカリウスが口を開いた。
「……なぜそこまで与える」
ローゼリアは言葉を飲み込む。翡翠の瞳が紫の瞳を刺すように見つめた。
「私の側近が死ぬなんて嫌だもの」
ルカリウスは静かに息を吐いた。
「……条件は」
「一年間、私のそばにいて。その間、私の血以外は飲まないで」
「血を……一年も?」
「できない?」
空気が止まる。お互いが、次の言葉を探していた。
不意に、ルカリウスの左手がローゼリアの右手首を掴んだ。その逃がさない力加減に、触れられた部分の肌が脈に合わせて熱を帯びる。
「王女は……俺を縛りたいんですか?」
「さあ、どうかしら?」
先に目を逸らした方が負ける勝負のようで、ローゼリアは思わず息を止めた。
「私はあなたを選んだ。あなたが私を選ぶのか、確かめたいだけよ」
ルカリウスは息を吐くと、目を閉じた。次の瞬間、決意をしたように静かに片膝をついた。忠誠でも服従でもない、対等な契約者として。
「……俺が死ぬ未来があるのなら、書き換える。王女を犠牲にしてまで生き延びる気はない」
ルカリウスはローゼリアの右手を取り、視線を伏せると手の甲へそっと唇を落とした。その所作は、騎士の誓いのようだった。
「誕生日おめでとうございます」
一拍、言葉が途切れる。呼ぶべきではない名が、ルカリウスの喉奥までせり上がった。
「……リア」
子供の頃と最期にだけ落とされた愛称。その呼び名が、ローゼリアの胸の奥を温かいものと冷たいものが同時に掠め、泣き出したい衝動に駆られた。
これは、やり直しではない。同じ運命が待つなら、今度は運命ごと噛み砕く。




