第2話 王女は赤を脱ぐ
「リア様、お誕生日おめでとうございます!」
ローゼリアはその声に、必死に焦点を合わせようと瞬きをした。
視界に広がるのは、赤く染まった世界ではない。ピンクゴールドのカーテンが薄く透け、大きな窓から眩い朝の光が差し込む自分の部屋だ。
「ミレイユ……?……ルカは?──ルカリウスはどこにいるの?」
突然の問いに、ローゼリアの髪を梳いていたミレイユの手が止まった。
「扉の外側で、お着替えが終わるのをお待ちでございます」
視界が、少しずつ現実へ焦点を結ぶ。金の装飾で縁取られた鏡の中に、真紅のドレスを纏ったローゼリアがいる。ゆるやかに巻かれた赤髪、宝石に縁取られた胸元。翡翠の瞳だけが、死を記憶したまま静かな光を宿している。
(ルカは、生きている……の?……あれは、夢だった……?いや、違う)
夢ならよかった。けれどあの体温の消え方を、夢と呼べるほど鈍くはない。右手首の奥で、熱いものが脈打っている。今は見えない赤い痣が、皮膚の下で息をするように。
ローゼリアは鏡の中に映る自分の姿に視線を向けた。
(……このドレス)
去年、あの男に贈られた赤。記憶と現実が重なり、思考が追いついてくる。
(──時間が、巻き戻った)
ローゼリアは、はっとして左手を見る。薬指には、まだ何もない。婚約者に刻まれた緑の薔薇は、まだどこにも咲いていなかった。
(まだ、間に合う)
今すぐルカリウスの元へ走り、生きているのを確認したい。なのに、この赤が震えを誘う。
「リア様……大丈夫ですか?」
「……ドレスを着替えたいわ」
予想もしていなかった言葉に、ミレイユの手がわずかに止まった。
ローゼリアは自分でドレスの紐をほどく。この赤を、一秒でも早く遠ざけたかった。
宝石を散りばめた赤が、絨毯へ滑り落ちる。花模様のラグの上で、赤がゆっくりと広がった。甘く整えられた部屋の中で、その色だけが毒のように浮いて見える。
「この色の気分ではないの」
「黒がいいわ」
(──あなたの色に)
「かしこまりました。昨日届いた新作をお持ちいたします」
ミレイユが一礼して衣装室へ向かう。衣装室の扉が開く音がして、すぐに黒いドレスが運ばれてきた。丁寧な手つきで身体へ重ねられていく。
深い夜の色が、そっと肌を包んだ。赤よりも重く、静かで、深い──そしてルカリウスが纏う色。
「黒はまた一段と……リア様を輝かせますね」
鏡に自分の姿を映し、ローゼリアは柔らかく微笑んだ。
「ええ。こちらの方が──」
(吸血族の王女らしいでしょう?)
続きを、張り詰めた息と一緒に飲み込む。この一日を越えれば、運命は再び同じ夜へ堕ちていく。それだけは、許さない。
(まずは、この婚約を止める)
それが最初の一手。止められなければ、また赤い雪の夜を繰り返す。ルカリウスが、死ぬ。
「……ルカ?そこにいるんでしょ」
(今度こそ、ルカを選ぶ)
低いノックの音が天井へ跳ね、戻ってくる。扉が開くと同時に、朝の空気に混じって影が入り込んだ。
気配だけで、ローゼリアの呼吸が止まった。黒尽くめの男が、一歩、部屋へ踏み入れる。
銀髪は光を孕み、淡い紫の瞳は夜の底を静かに隠していた。少し長めの前髪から覗く鋭い視線が、ローゼリアを静かに射抜く。その姿を見た瞬間、胸の奥がきつく締めつけられた。
(ああ──生きてる)
たったそれだけで、瞼の裏がじわりと熱くなる。死の記憶が、体温として戻ってくる。
「……ルカ」
名前を呼ぶだけなのに、呼吸がうまくできない。想いが込み上げてきて、何から言葉にしたら良いかもわからない。
「……どうかしら?」
(そんなことが聞きたかったわけじゃないのに……)
ルカリウスは一定の距離で止まり、首を少し傾けた。いつもより長く、視線だけで黒いドレスを辿る。
「……黒ですか」
甘く低い、重力のように沈んでくるルカリウスの声。獣のような鋭い視線が鎖骨から足元へ滑る。
黒い絹に重なるダマスクローズ。その奥に沈むホワイトムスク。さらに深い場所から、熟れたワインみたいな濃い血の香り。
ルカリウスは目を細めると、空気を吸い込むみたいにゆっくりと息をする。その瞬間だけ、飢えが静かになるのを見た気がした。
「王女が黒を選ぶときは、何かを切り捨てるときだ」
紫の瞳が、静かにローゼリアを捉える。
わずかな変化に気づくところも、どうしようもなく胸がきゅっとなる。目の前の男を愛しむように、自然と笑みが零れる。
(あなたの色に、合わせたのは気づいたかしら?)
「似合うかどうかを聞いているのよ」
「……見た目だけなら、この国で一番じゃないですか」
口角を上げ軽い口調で言うルカリウスに、ローゼリアは一歩、近づいた。
(──あと一年)
その数字は祈りではない。死刑宣告の期限だ。
「今日は静かですね──誕生日なのに浮かれてない」
ルカリウスの視線が首筋に落ちる。理性で整えた声の裏で、微かに感じる喉の奥の渇きの音。その渇きは、吸血族の飢えとは少し違う。もっと根深くて、もっと欠けている何か。
(この渇きを、私が埋める)
「ルカリウス・レヴァイン」
「私の──愛人になりなさい」
ルカリウスの喉が動いた。飲み込んだのは息か、衝動か。




