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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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35/66

第35話 消えた満月

満月の夜だった。


王族の力が最も鮮明に現れる夜。満月のたび、城も街も熱に浮かされる。なのに、あまりにも静かすぎた。


胸の奥がざわつく。満月の夜には必ずあるはずの“圧”が、どこにもない。ローゼリアは、自室の窓から空を見上げた。違和感の正体に名前をつける前に、視線が止まる。


「……」


言葉が、出なかった。息が止まる。空にあるはずのものが、ない。──空白だけが、そこにあった。


「……月が、無い?」


小さく零れた声は、夜に溶けた。満月の夜に、満月が存在しない。それが何を意味するのか──理解するより先に、本能が拒絶した。背後で、気配が動く。振り返るより先に、腕を引かれた。


「外に出るな」


ルカリウスだった。そのまま距離を詰められる。触れられた瞬間、ローゼリアの意識がわずかに揺れた。


「……ルカ」


呼ぶと、すぐ近くで呼吸が落ちる。その温度に触れた瞬間、違和感が別の形に変わる。


(──おかしい。血の流れが、静かすぎる)


満月の夜、吸血族は誰もが渇きを強める。愛を知るものはその感情も強まる。だからこそ、本来ならもっと高鳴るはずだった。抗えないほどに。それなのに。


(……違う)


ゆっくりと、ルカリウスの胸元に触れる。鼓動はある。体温もある。いつもと同じはずなのに。──繋がっている。言葉にしなくても分かるほど、深く。


(もう、終わってる)


満月を待つ必要なんてなかった。完成するはずだったものは、すでに成立している。──誰にも知られないまま。理由は分からない。けれど確信だけがあった。


「……静かすぎるな」


ルカリウスの声が低く落ちる。それは警戒だった。戦場で感じるそれと、同じ温度。ローゼリアも、同じ違和感を感じていた。


空気が、歪んでいる。風がないのに、空間だけが揺れるような感覚。呼吸をするたびに、何かが引っかかる。


ルカリウスの視線が、わずかに細められる。その瞳の奥で、色が揺れた。紫の奥に、ほんの一瞬だけ混じる異質な光。


(……今、月が──)


見間違いかもしれないほど淡い。けれど、確かにそこにあった。ローゼリアの指先が、無意識に強くなる。その違和感に名前を与える前に──気配が変わった。


大理石の廊下に複数の足音が響く。その少し前を小刻みに走るミレイユの足音。扉をノックする音と同時に、扉の向こう側からミレイユの声が響く。


「リア様、大変でございます!宰相と貴族派の皆様がこちらに向かっておいでです」


ミレイユの声で、嫌な予感は確信に変わった。


「……来たな」


ルカリウスの声に警戒が灯る。


「ローゼリア・ヴァル・ノクティス王女殿下」


扉の向こう側からの呼びかけに、ミレイユが扉を開く。


ノクティス王国の宰相。その後ろには、貴族派の有力貴族達が並んでいる。さらに後方には、感情を持たぬ彫像のように近衛騎士達が立っていた。


形式的な一礼。しかしその目には、敬意がない。


「王族各位には、“月輪の間”への出席が命じられています」


「既に主要貴族は集まっております」


「……理由は?」


ローゼリアの声は、静かだった。その問いに、わずかな間が落ちる。


「“月の消失”についてです」


「吸血族にとっての象徴が消失した以上、原因の究明と──」


一拍の間が落ちた。


「王位継承の再検討が必要と判断されました」


その言葉が落ちた瞬間、夜の温度が変わった。ローゼリアは瞬きをしなかった。胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。驚きはしない。──もう、どこかで知っていた。



◇◇◇



研究塔の下層。


普段は静寂に支配されている空間が、異様なざわめきに包まれていた。


「波形が……一致しません」


「嘘だろ、満月のピーク値が──ゼロ?」


「ありえない……観測不能領域なんて、記録にないぞ……!」


「……記録に残すな」


紙の擦れる音。インクの匂い。焦った呼吸。誰もが“理解できない異常”に直面していた。


「報告を上げろ、至急──」


「もう上がっています!ですが、上層からの指示が……来ない」


その一言で、空気が止まる。


「……どういう意味だ」


「“待機せよ”と。それだけです」


ざわめきが、恐怖に変わる。



◇◇◇



研究塔の最上階、観測室。


開閉式の硝子天井を開き、セラフィオンは空を眺めていた。手には星詠みの盤。波形は安定している。三点は、完全に繋がっている。歪みはない。理論上は、完璧だ。


(この現象は、一時的なものだ)


満月が消えたのではない。──“必要がなくなった”だけだ。


(“均衡を守った”つもりだった)


(……だが、壊したのは私だ)


記録にはある。“月が消えた夜”。それは古い記録の中で、一度だけ観測された現象だった。王が決まった夜ではない。“世界が王を固定した夜”。


初代ノクティスが王となる少し前にも、月は消えた。──アストラ家の記録だけに残された現象。王が確定したとき、月は一時的に役目を終える。


(──それを、王家は知らない)


アストラは、最古の家系。だからこそ、多くを知りすぎている。知りすぎた家系には、それに見合う沈黙が課される。アストラに関する記録は、まるで意図的に削られたように欠けていた。


(私が──私の介入によって、月を消した)


ノック音と同時に響く声。


「アストラ大公!至急──」


(……もう、動いたか)


盤に映る波形が、わずかに揺れる。



◇◇◇



同じ頃。自室のバルコニー。


エリオは、空を見上げていた。満月はない。それでも、何も驚かなかった。ゆっくりと目を閉じる。空が静かすぎた。満月が消えたからではない。──“決まってしまった”からだ。もう世界は、次の王を選び終えている。


「最悪。……来ちゃったね」


小さく笑う。その声は、どこか乾いていた。


「こんなの、誰も幸せにならないのになあ──」


懐中時計を開く。秒針は、正確に進んでいる。止まらない。戻らない。


「はぁ……これ、僕が選ばなきゃいけないやつだ」


小さく、息を吐く。固有アイテムの存在は、“ヴァル”の名を持つものしか知らない。時を操る者が王になった時、何が起きるのかを。


「僕を神にでもする気なのかな。こわっ」


ルミナスの神話を思い浮かべながら、エリオは冗談めかして笑った。


ローゼリアを守ろうとすれば、世界の流れそのものに逆らうことになる。けれど──。


「だからって、諦められるわけないでしょ」


丁寧なノック音が鳴り響く。


「エリオ・ヴァル・ルミナス王子殿下。“月輪の間”への緊急召集でございます」


「分かってる」


エリオはそれだけ告げる。


逃げることは出来ないと、もう分かっている。



◇◇◇



王宮の廊下。ローゼリアは、静かに歩いていた。歩く中、貴族たちの話声が聞こえる。


「双子が生まれた時点で、兆候はあった」


「王族性が片割れに偏った」


「故に月が歪んだに違いない」


ローゼリアはまっすぐ前だけを見て進む。ルカリウスの気配が、すぐ隣にある。何も言わない。言葉にする必要がないほど、状況は明確だった。奪われる。選ぶ前に、選ばされる。その事実だけが、静かに沈んでいく。


ふと、足が止まる。窓の外、夜の空に満月はない。それなのに、ほんの一瞬だけ、何かの光が滲んだ。見間違いかもしれないほど淡く、それでも確かに──夜の奥に、存在しないはずの光が。


「……」


ローゼリアは、何も言わない。ただ、その光を見ていた。


それが何を意味するのか、まだ分からないまま。


満月は──消えた。


世界はすでに、次の王を選び終えている。選ばれたものだけが──まだ、それを知らない。


【第1幕完】

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