第35話 消えた満月
満月の夜だった。
王族の力が最も鮮明に現れる夜。満月のたび、城も街も熱に浮かされる。なのに、あまりにも静かすぎた。
胸の奥がざわつく。満月の夜には必ずあるはずの“圧”が、どこにもない。ローゼリアは、自室の窓から空を見上げた。違和感の正体に名前をつける前に、視線が止まる。
「……」
言葉が、出なかった。息が止まる。空にあるはずのものが、ない。──空白だけが、そこにあった。
「……月が、無い?」
小さく零れた声は、夜に溶けた。満月の夜に、満月が存在しない。それが何を意味するのか──理解するより先に、本能が拒絶した。背後で、気配が動く。振り返るより先に、腕を引かれた。
「外に出るな」
ルカリウスだった。そのまま距離を詰められる。触れられた瞬間、ローゼリアの意識がわずかに揺れた。
「……ルカ」
呼ぶと、すぐ近くで呼吸が落ちる。その温度に触れた瞬間、違和感が別の形に変わる。
(──おかしい。血の流れが、静かすぎる)
満月の夜、吸血族は誰もが渇きを強める。愛を知るものはその感情も強まる。だからこそ、本来ならもっと高鳴るはずだった。抗えないほどに。それなのに。
(……違う)
ゆっくりと、ルカリウスの胸元に触れる。鼓動はある。体温もある。いつもと同じはずなのに。──繋がっている。言葉にしなくても分かるほど、深く。
(もう、終わってる)
満月を待つ必要なんてなかった。完成するはずだったものは、すでに成立している。──誰にも知られないまま。理由は分からない。けれど確信だけがあった。
「……静かすぎるな」
ルカリウスの声が低く落ちる。それは警戒だった。戦場で感じるそれと、同じ温度。ローゼリアも、同じ違和感を感じていた。
空気が、歪んでいる。風がないのに、空間だけが揺れるような感覚。呼吸をするたびに、何かが引っかかる。
ルカリウスの視線が、わずかに細められる。その瞳の奥で、色が揺れた。紫の奥に、ほんの一瞬だけ混じる異質な光。
(……今、月が──)
見間違いかもしれないほど淡い。けれど、確かにそこにあった。ローゼリアの指先が、無意識に強くなる。その違和感に名前を与える前に──気配が変わった。
大理石の廊下に複数の足音が響く。その少し前を小刻みに走るミレイユの足音。扉をノックする音と同時に、扉の向こう側からミレイユの声が響く。
「リア様、大変でございます!宰相と貴族派の皆様がこちらに向かっておいでです」
ミレイユの声で、嫌な予感は確信に変わった。
「……来たな」
ルカリウスの声に警戒が灯る。
「ローゼリア・ヴァル・ノクティス王女殿下」
扉の向こう側からの呼びかけに、ミレイユが扉を開く。
ノクティス王国の宰相。その後ろには、貴族派の有力貴族達が並んでいる。さらに後方には、感情を持たぬ彫像のように近衛騎士達が立っていた。
形式的な一礼。しかしその目には、敬意がない。
「王族各位には、“月輪の間”への出席が命じられています」
「既に主要貴族は集まっております」
「……理由は?」
ローゼリアの声は、静かだった。その問いに、わずかな間が落ちる。
「“月の消失”についてです」
「吸血族にとっての象徴が消失した以上、原因の究明と──」
一拍の間が落ちた。
「王位継承の再検討が必要と判断されました」
その言葉が落ちた瞬間、夜の温度が変わった。ローゼリアは瞬きをしなかった。胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。驚きはしない。──もう、どこかで知っていた。
◇◇◇
研究塔の下層。
普段は静寂に支配されている空間が、異様なざわめきに包まれていた。
「波形が……一致しません」
「嘘だろ、満月のピーク値が──ゼロ?」
「ありえない……観測不能領域なんて、記録にないぞ……!」
「……記録に残すな」
紙の擦れる音。インクの匂い。焦った呼吸。誰もが“理解できない異常”に直面していた。
「報告を上げろ、至急──」
「もう上がっています!ですが、上層からの指示が……来ない」
その一言で、空気が止まる。
「……どういう意味だ」
「“待機せよ”と。それだけです」
ざわめきが、恐怖に変わる。
◇◇◇
研究塔の最上階、観測室。
開閉式の硝子天井を開き、セラフィオンは空を眺めていた。手には星詠みの盤。波形は安定している。三点は、完全に繋がっている。歪みはない。理論上は、完璧だ。
(この現象は、一時的なものだ)
満月が消えたのではない。──“必要がなくなった”だけだ。
(“均衡を守った”つもりだった)
(……だが、壊したのは私だ)
記録にはある。“月が消えた夜”。それは古い記録の中で、一度だけ観測された現象だった。王が決まった夜ではない。“世界が王を固定した夜”。
初代ノクティスが王となる少し前にも、月は消えた。──アストラ家の記録だけに残された現象。王が確定したとき、月は一時的に役目を終える。
(──それを、王家は知らない)
アストラは、最古の家系。だからこそ、多くを知りすぎている。知りすぎた家系には、それに見合う沈黙が課される。アストラに関する記録は、まるで意図的に削られたように欠けていた。
(私が──私の介入によって、月を消した)
ノック音と同時に響く声。
「アストラ大公!至急──」
(……もう、動いたか)
盤に映る波形が、わずかに揺れる。
◇◇◇
同じ頃。自室のバルコニー。
エリオは、空を見上げていた。満月はない。それでも、何も驚かなかった。ゆっくりと目を閉じる。空が静かすぎた。満月が消えたからではない。──“決まってしまった”からだ。もう世界は、次の王を選び終えている。
「最悪。……来ちゃったね」
小さく笑う。その声は、どこか乾いていた。
「こんなの、誰も幸せにならないのになあ──」
懐中時計を開く。秒針は、正確に進んでいる。止まらない。戻らない。
「はぁ……これ、僕が選ばなきゃいけないやつだ」
小さく、息を吐く。固有アイテムの存在は、“ヴァル”の名を持つものしか知らない。時を操る者が王になった時、何が起きるのかを。
「僕を神にでもする気なのかな。こわっ」
ルミナスの神話を思い浮かべながら、エリオは冗談めかして笑った。
ローゼリアを守ろうとすれば、世界の流れそのものに逆らうことになる。けれど──。
「だからって、諦められるわけないでしょ」
丁寧なノック音が鳴り響く。
「エリオ・ヴァル・ルミナス王子殿下。“月輪の間”への緊急召集でございます」
「分かってる」
エリオはそれだけ告げる。
逃げることは出来ないと、もう分かっている。
◇◇◇
王宮の廊下。ローゼリアは、静かに歩いていた。歩く中、貴族たちの話声が聞こえる。
「双子が生まれた時点で、兆候はあった」
「王族性が片割れに偏った」
「故に月が歪んだに違いない」
ローゼリアはまっすぐ前だけを見て進む。ルカリウスの気配が、すぐ隣にある。何も言わない。言葉にする必要がないほど、状況は明確だった。奪われる。選ぶ前に、選ばされる。その事実だけが、静かに沈んでいく。
ふと、足が止まる。窓の外、夜の空に満月はない。それなのに、ほんの一瞬だけ、何かの光が滲んだ。見間違いかもしれないほど淡く、それでも確かに──夜の奥に、存在しないはずの光が。
「……」
ローゼリアは、何も言わない。ただ、その光を見ていた。
それが何を意味するのか、まだ分からないまま。
満月は──消えた。
世界はすでに、次の王を選び終えている。選ばれたものだけが──まだ、それを知らない。
【第1幕完】




