第34話 均衡の残響
夜は明けていた。
つい先ほどまで昂っていた熱は、ローゼリアの意識とともに静かになった。けれど、ルカリウスの中では、まだ終わっていない。
ピンクゴールドのカーテンの隙間から差し込む光。薔薇の花の香り。いつもと違う朝なのは、ローゼリアの部屋で朝を迎えたからではない。まったく別の違和感。
腕の中でローゼリアが静かな寝息を立てて眠っている。白い肌が自分の痕跡で赤紫色に染め上がっていた。規則的な呼吸。体温も、鼓動も、すべてが落ち着いている。
(──なんだ?)
ルカリウスはゆっくりと目を細める。鼻先に残る匂い。ダマスクローズと、微量の甘さ。その奥に、自分の匂い。何度も上書きした。確かに、完全に。──それなのに。
「……残ってるな」
匂いではない。もっと深い場所。血の流れの奥に、わずかに引っかかるものがある。説明できない。だが、確かに“異物”がいる。
指先が、無意識にローゼリアの手首へ触れる。脈は安定している。問題はない。だが──そのさらに奥。ほんの一瞬だけ、違う流れが混ざる。ルカリウスは自分の首元に触れる。自分の血の中にも感じる同じ違和感。
「……」
言葉にはしない。認めることになるからだ。ルカリウスは目を閉じる。そして何もなかったように、ローゼリアの指先に自分の指先を絡め唇を寄せた。深い眠りにつくローゼリアを自分の身体で覆うように強く抱きしめる。
消えていないなら。──何度でも、消せばいい。消えないなら、壊してでも。
──残るものごと。
◇◇◇
どれくらい眠っていたのだろう。
時間の感覚が麻痺している。身体中が痛くて動かせない。何度も意識が消え、目を覚ますたびに、最初に感じたのは温度だった。包み込まれるような、深くて安定した熱。
「……ルカ」
名前を呼ぶと、すぐ近くで呼吸がわずかに揺れる。ベチバーにほんの少しのアンバー。この匂いと体温。それだけで、安心する。
記憶が、ゆっくりと戻ってくる。触れられた場所。刻まれた印。塗り替えられた感覚。すべてが、身体の内側に残っている。怖くはなかった。むしろ──落ち着いている。
ローゼリアは、ゆっくりと息を吐く。このままでいいと、思ってしまう。ずっとこの腕の中に閉じこもっていられたら──。そう思った瞬間。
「……あれ?」
ほんの一瞬だけ、感覚が揺れた。理由は分からない。ただ、身体の奥で、わずかに引かれるような感覚。方向だけが分かる。青の感覚。確かに“繋がっている”。
(……これが、そういうことなの?)
セラフィオンの星詠みの盤。三点構造。ローゼリアは理解する。
(フィオが繋いでいなかったら、ルカが壊れていたかもしれない)
ルカリウスの腕が、わずかに強くなる。その温度に触れた瞬間、さっきの感覚は、簡単にかき消された。
「どうした…?」
ルカリウスは小さな動きにも反応する。
「……なんでもない」
そう言って、ルカリウスの頬にキスをしてまた目を閉じる。考える必要はない。今ここにある温度だけで、十分だった。それなのに。身体の奥のどこかが、まだ“覚えている”。
◇◇◇
研究塔は、いつも通り静かだった。
セラフィオンは盤の前に立ち、淡々と数値を追っている。波形は安定している。三点構造は完全接続。歪みもない。負荷もない。理論通りの結果。
「……これでいい」
誰に言うでもなく、呟く。そう言い聞かせるように。指先の震えは、もうない。呼吸も視界も、揺れていない。正常。すべてが、計算通りだ。そのはずなのに、わずかに呼吸が浅い。
盤に映る波形が、わずかに脈打つ。ローゼリア。ルカリウス。セラフィオン。完全な均衡。──完璧だ。そのはずなのに。ほんの一瞬だけ、視界の端が揺れた。
セラフィオンは、動かない。そのまま目を閉じる。欲しいものを得ることも出来ないのに、罪だけが重くのしかかる。
ヴェルモント家とアストラ家の繋がり。北境公爵家との婚姻。政治上は、合理だった。合理だったからこそ、そこに感情が入り込む余地などないはずだった。未来を変えたのはローゼリア。けれどその元を作ったのは間違いなく自分だ。
(彼女は──死ぬだろう)
(……私がそうした)
背負うものの重さ。胸が締め付けられる。苦しいほどに。
セラフィオンは自分の唇に触れる。不意に熱が蘇った。柔らかな唇。触れた瞬間に震えた呼吸。揺れる翡翠の瞳。
「……っ」
指先が、わずかに強張る。あれは均衡のための行為でしかない。感情を挟む余地など、どこにもなかったはずなのに。それでも、唇だけが覚えている。もう、無かったことにはできなかった。触れた熱も。拒みきれなかった柔らかさも。そして──あの瞬間だけ、自分を見ていた視線も。
(私の命を引き換えにできたらどんなに──)
その問いに、答えは出ない。答えを出してしまえば、取り消せなくなるから。
窓の外を見つめた。ローゼリアの部屋のバルコニーが視界に入る。
「……愛とは」
無意識にこぼれ落ちた言葉に、思考が止まる。
盤の光が、わずかに強くなる。まるで、何かを訴えるように。
セラフィオンは、視線を逸らした。
◇◇◇
静かな庭園に、鉛筆の音。その背後には乾いた秒針音。
エリオはベンチに座り、懐中時計を眺めていた。アルベリクが絵を描くというから、ついて来たはずなのに心がどうにも落ち着かない。秒針は、正確に動いている。ズレはない。揺れもない。完璧な動き。
「……ふうん」
小さく笑う。指先で軽く触れると、針は一瞬だけ震え、すぐに元の位置へ戻る。
「戻らないんだ」
呟く声は、軽い。だがその目は、少しだけ冷えていた。時間は、進んでいる。正しく。確実に。止まらずに。
「どうしました?」
アルベリクがエリオの呟きに振り返る。
「これ、もう遅いやつ。……僕が触れた時点で、終わってたのかもね」
アルベリクの背中にもたれかかる。アルベリクは絵を描く手を止め、エリオの柔らかな髪を撫でながらも、それ以上は何も聞かない。その沈黙が、優しかった。
満月は、もう近い。本来なら、まだ余裕があるはずだった。準備も、選択も、全部。──間に合うはずだった。
「はぁ……」
ため息をつきながら、アルベリクの背中に抱きついたまま匂いを吸い込む。絵具と、乾いた麻布の匂い。窓辺に置かれた絵をそのまま閉じ込めたみたいな、柔らかな陽だまりの香り。そこに、微かに混じる花蜜の甘さ。いつの間にか、自分の香りが移っている。世界も、王位も、時間も。全部どうでもよくなるくらい、この匂いだけは落ち着いた。
「……アルの隣でだけ、普通でいられる」
アルベリクは何も言わないまま、エリオに抱きつかれた腕を優しくさすった。懐中時計を閉じる音が、小さく響く。
円は閉じた。均衡は成立した。だからこそ、次の流れが来る。
「はぁ……」
また深いため息をつく。
「アルは僕が守るからね」
「私の全てはエリオのものですから。……ですが、あなたはあなたでいてください」
「どうせもう未来は決まってるんだからさ、このルートは省いて欲しかったよねぇ」
アルベリクがエリオを優しい笑顔で見つめた。
カチ。
秒針は、止まらない。閉じた円はもう誰にも開けられない。




