第33話 刻まれる温度
夜は深く、音を失っていた。大理石の廊下に足音がひとつ、規則的に落ちていく。胸の奥には、まだ名前のない違和感が残ったまま。その違和感に名前をつける前に、視界が止まる。
扉の前に──影。月明かりに縁取られた輪郭。見間違えるはずもない。ルカリウスが、そこにいた。
「……」
言葉が出ない。どうしてここに、という問いすら浮かばない。ただ、本能だけが理解していた。──逃げ場がない。
「……遅い」
責める響きではない。感情もほとんど乗っていない静かな声。それなのに、その一言だけで背中が冷えた。
ルカリウスの視線が、足元からゆっくりとローゼリアをなぞっていく。その視線だけで汗ばむ。やがて、その視線は喉元で止まった。
「また……」
わずかに言葉が途切れる。ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなり、すぐに戻る。
「……匂いがついたな」
確かめるように、言い切る声。否定の余地はない。ローゼリアの心臓が、強く跳ねた。無意識に、一歩下がろうとする。その前に、逃がさない力で腕を掴まれる。強すぎないのに、振りほどけない。腕を引かれ、距離が一瞬で消える。
「……っ」
ローゼリアの背が扉に触れる。木の冷たい感触と同時に、逃げ場が完全に塞がれる。ルカリウスの指が肩に触れ、そのまま首筋をなぞる。ゆっくりと確かめるように。動けないまま、視線と指先に絡め取られていく。
ダマスクローズの甘さ。その奥で、ジュニパーベリーだけが強く主張していた。そこへベチバーの乾いた香りが覆いかぶさり、アンバーだけが体温を孕んで甘く滲んだ。
ルカリウスの喉が低く鳴る。何も言わない。その沈黙だけが、かえって怖かった。
掴まれた腕に力がこもる。何かを押し殺しているように見えた。
そのまま強く抱き寄せられた。ルカリウスの唇が耳元に触れる。そのまま頬を辿り──唇の上で触れる直前に、止まった。ローゼリアは思わず目を閉じた。
息がかかるだけで触れない。じりじりとした間が続く。ローゼリアが目を開いた瞬間、掠めるように唇が触れた。ルカリウスはまた動きを止めると、わずかに顔をしかめた。
ルカリウスの親指が、ローゼリアの唇をなぞり、ゆっくりと唇を押し開く。そのまま奥へともう片方の指を押し入れていく。
「んんっ……」
柔らかいはずの場所に、わずかな引っかかり。裂けている。そこで指が止まる。
「……中まで、か」
ローゼリアの唇から抜いた指を、ルカリウスはゆっくりと自分の口へ運び、指先を舌でなぞる。残った感触を、確かめるみたいに。ローゼリアの喉から小さな声が零れる。
「や……」
舌先を動かすとわずかに血の味がした。こんな小さな傷まで、見つけられてしまった。
「……宣戦布告か?」
何のことなのか分からなかった。それでも、その静かな声だけで身体が震えた。ルカリウスはもう何も言わない。その沈黙の方が、言葉より怖かった。
「……なら、消す」
その声に、迷いはもうなかった。今度は、止まらない。唇が重なる。最初は浅く、静かに。けれどすぐに深くなる。確かめるためではない。──残されたものを、消すために。
「んっ……」
ローゼリアの呼吸が乱れる。逃げるより先に、身体がほどける。舌が触れ合い息が混ざる。
唇を離すと、ルカリウスの指がゆっくりとローゼリアの下唇をなぞった。
「……全部、塗り替える」
再度唇を重ねると、舌先でその傷へ触れる。傷をなぞるように牙が触れる。押し込む前に、ほんの一瞬だけ止まる。──それでも、やめない。
「んん……っ」
腕が深く回る。そのまま舌へ牙を押し込んだ。
唇が離れることなく、熱だけが続く。舌から吸われていく血。押し付けられる体温に、逃げ場がなくなっていく。それなのに、その中が一番落ち着いていた。
牙を抜くと、ローゼリアがルカリウスの首に縋るようにしがみつく。──止める理由が、完全に消えた。
ルカリウスの指が肩を覆う布を引き下ろす。露わになった肌を見つめる。その指先は、何かを探しているようだった。
ルカリウスは無言のまま腰へ腕を回しローゼリアを抱き上げる。首筋に唇を寄せたまま、邪魔な布だけを乱暴にずらした。抵抗を許さないまま、そのまま寝台へ向かった。
寝台へ降ろされても、ルカリウスの腕は離れない。指先がゆっくりと内側を溶かしていく。ローゼリアの息が甘く零れ、嬌音が満ちていく。
ルカリウスの視線が首元で止まる。指先が、ほんの一瞬だけ止まった。ためらったようにも見えた。けれど次の瞬間、牙がゆっくりと触れた。
首筋へ熱い吐息が落ちる。次の瞬間、わざと痛みを与えるように牙が沈んだ。
その痛みをなぞるように、ルカリウスはゆっくりと腰を沈めた。
「……っっ」
ローゼリアの息が震える。痛みと同時に熱が広がる。ルカリウスは血を吸いながら一度だけ腰を深く沈め、そのまま動きを止めた。痛みで身体が震えるのに、拒めなかった。
ルカリウスの唇の端に赤が滲んでいるのが見えた。
首元からゆっくりと離れたあと、今度は絡んでいた指を解いていく。両方の手首を頭の上に押さえつけられて動けない。手首の内側、脈が打っている場所に唇が触れる。
「……ここもだ」
次の瞬間、手首にも同じ熱が刻まれた。血を奪われる感覚に、思わず息が震える。
「甘いな……」
「……んっ──っっ」
身体が小さく震えた。さっきより痛い。それなのに身体が解けていく。首元も、手首も熱を持って痛む。その熱だけで、頭の中は真っ白になっていった。
「る……ルカ……」
名を呼ぶ声が、甘く崩れる。呼んだつもりなのに、縋るような音になる。ルカリウスは強く抱き寄せる。今度は、完全に自分の腕の中へ収めるように。
「……もう、限界だ」
掠れた声が骨に響いて、内側の疼きが増していく。
「もう、残させない」
ローゼリアの唇にルカリウスの唇が重なる。口の中の自分の血の味に、ルカリウスの味が混ざっていく。
「俺の匂いだけでいい」
その一言だけが胸の奥へ沈み、逆らう気持ちを溶かしていく。ベチバーの深い香りが、呼吸の奥まで沈んでくる。ダマスクローズが、少しずつ上書きされていく。熱を持ったアンバーだけが、身体の内側で静かに燃えていた。
「……ルカがいい」
ルカリウスがわずかに目を細めた。動きは止まったままだった。やっと、わずかに腰を動かしては引く。深く沈む寸前で止まる。浅い場所ばかりを執拗になぞられて、ローゼリアの息が乱れた。
「いじ……わる……」
「どうしてほしいんだ?」
ローゼリアは耐えきれず、手の甲で顔を隠した。
「……もっ……と」
「隠すな、こっち見ろ」
「……奥……欲しい」
次の瞬間、手首を掴まれルカリウスの腰が深く沈む。そのまま奥を激しく突き上げた。
「ああっ……」
寝台が軋む音が静かな部屋に響く。ほかの気配が入り込む余地はない。そう身体に覚えさせられているみたいに何度も熱を刻まれていく。
気づけば、何度もルカリウスの名前を呼んでいた。呼ぶたびに、彼の腕の中へ沈んでいく。絶頂を迎えるたびに甘い香りが何度も弾ける。呼吸のたび、身体の奥まで満たされていく。
夜はさらに深く、静かになっていく。天蓋越しに欠けた月が浮かぶ。匂いも、温度も、小さな傷も、繰り返し上書きされていく。意識が薄くなっていく中でも、終わらない。
舌先に残る甘い痛み。首元に残る熱。手首に残る微かな疼き。どれも、嫌ではなかった。むしろ不思議なほど、溶けていく。
ルカリウスは何も言わず、首筋を見つめた。指先だけが、噛み痕の縁をなぞる。
「痛むか」
「……痛い、わ」
その痛みさえ、心地よく胸の奥へ沈んでいく。ルカリウスの指先が、首筋の痕をゆっくりなぞる。
「……そうか」
ルカリウスの紫の瞳が、赤く滲んだ気がした。
「まだ、眠れると思うな」
そう囁く声が耳元に落ち、再び体温が覆い被さる。
窓の外、欠けた月は静かに沈んでいく。夜が明けるころには、最初に刻まれた痛みが誰のものだったのかさえ、もう分からなくなっていた。もう、戻り方を思い出せなかった。
──ただ、この温度だけは。何度上書きされても、消えないまま身体の奥に残っていた。




