第31話 匂いの違い
夜の石造りの廊下は静かだった。
ローゼリアは、いつも通りルカリウスの部屋へ向かう。胸の奥が、ほんの少しだけ熱い理由は考えないようにしながら。
扉を開けると、ルカリウスは窓辺に立っていた。紫の瞳が、ローゼリアを映すとすぐに柔らかくなる。ローゼリアが近づいた瞬間、空気がわずかに変わった。ルカリウスの視線が止まる。一拍。二拍。
「……匂いが違う」
責める声ではなく、ただ事実を告げるだけの音。ローゼリアの心臓が跳ねる。黙ったまま、ルカリウスを見上げる。
ルカリウスは一歩近づく。指が肩に触れ、ゆっくりと首筋をなぞる。確かめるように。甘い薔薇と白いムスクの奥に──ほんのわずかに混じる、冷たいシダー。
ルカリウスの喉が、ひとつ鳴った。本能がはっきりと感じる。
(──触れられた。匂いがつくほど)
自分以外の血が、わずかに共鳴している。問い詰めない。ただ、ローゼリアの腕を掴み引き寄せる。
「……観測室か」
低く囁くような声。否定の余地を残す響き。けれど胸の奥では、嫉妬が静かに燃えていた。ローゼリアは何も言えなかった。少しの沈黙に耐えきれず目線を逸らした。
ルカリウスはローゼリアの顎を掴み、顔を正面に向けると翡翠の瞳を覗き込んだ。目線を無理矢理合わせ、息を吐いた。
「上書きする」
その言葉と同時に、ルカリウスの左目の奥で赤が一瞬だけ浮かぶ。ローゼリアの腕を掴んだ指先がわずかに強くなる。
ローゼリアの指がルカリウスの胸元の布を掴む。唇が静かに重なった。浅かった重なりが、すぐに深くなる。確かめるキスではない。奪い返すような、長い口づけ。ローゼリアの息が揺れる。ルカリウスの喉奥が低く鳴った。いつもより甘い。その奥に、ほんのわずかに残る別の気配。
崩れていく理性の中で、ルカリウスの牙がローゼリアの下唇を裂いた。下唇に滲んだ赤を、ゆっくりと吸い取っていく。時折、深く舌を絡めながら。口の内側と、流れ込む血。その両方を味わうように。
「っ……」
小さな声が漏れる。身体の奥が、溶けるように熱くて緩んでいくような感覚。ルカリウスの呼吸が荒くなる。ベチバーの熱に溶かされるように、ローゼリアの甘い香りがほどけていく。血も香りも甘さが増していく。ローゼリアの血を受け取る代わりに、ルカリウスの匂いを血に刻んでいく。
息が苦しいのに身体は解けていく。ようやく唇が離れる。ルカリウスの唇の端に、赤が滲む。紫の瞳の奥には、わずかな赤が灯っていた。
ルカリウスは無言のまま、目線だけを逸らす。ローゼリアの呼吸は甘く乱れている。
「……ルカ」
名を呼ぶ声が溶ける。ルカリウスは額を重ねる。鼻先が触れる。匂いを深く吸い込む。さっきまであった冷たい残滓は、ほとんど消えていた。自分の匂いが強い。満足したわけではない。一瞬だけ、確かめるように息を吸う。それでも、確信する。
「……消えたな」
低く呟くと、確認するようにもう一度ローゼリアの髪へ顔を埋める。ルカリウスは静かに息を吐いた。
「ルカ……?」
呼びかけた瞬間だった。ふわりと身体が浮く。
「えっ」
驚くローゼリアを無視して、ルカリウスはそのまま抱き上げた。
「歩けるわ」
「知ってる」
それでも降ろさない。腕の中へ囲い込むように抱えたまま寝台へ向かう。
「……嫉妬深いのね」
小さく笑うと、ルカリウスはわずかに眉を寄せた。
「今さらだろ」
そのまま寝台へそっと下ろされる。ベチバーとアンバーの香りが近い。逃がさないように指先だけ絡められる。そのまま隣へ横になると、ルカリウスはローゼリアを腕の中へ引き寄せた。
寝台の上に横たわり、ローゼリアはルカリウスの胸に頬を預ける。鼓動の音を聞きながら、守られている安心感に包まれる。鼓動は静かだった。ローゼリアの心も、もう揺れていない。
(ルカと私はお互いの欠けたものを満たしていく)
(フィオと私はお互いの罪を隠し補っていく)
ベチバーとアンバーの香りに包まれるたび、ローゼリアの甘い薔薇が静かにほどけていく。
ルカリウスの指が、髪を優しく撫でる。問い詰めなかった。責めなかった。嫉妬を飲み込む代わりに、ただ、上書きした。そんなルカリウスが、どうしようもなく愛おしいと思う。胸の奥で、静かに言葉が落ちる。
(私は、ルカを愛してる)
揺らぎはない。セラフィオンのことを思うと、痛む。でもそれは恋ではない。彼の罪を知ってしまった痛み。そして、自分もまた罪を抱えた側だという感覚。──だからこそ、あの孤独に共鳴してしまう。
(──私は秘密を守るために、フィオの手を離せない)
「考え事か」
ルカリウスの指が、そっと顎に触れる。紫の瞳が真っ直ぐローゼリアを見下ろしていた。隠せない。けれど、もう誤魔化すつもりもなかった。
「ううん。何でもないわ」
ローゼリアは静かに指を絡める。
(……選んだだけ)
ルカリウスは何も聞かない。理由も、誰のことかも。ただ、絡んだ指を強く握る。
左目の奥で、赤はもう灯っていない。血も鼓動も、静かに安定していた。その温度に包まれるたび、ローゼリアの呼吸がゆっくりと深くなる。──ここが、自分の帰る場所なのだと、自然に思えた。
窓の外では、欠けた月だけが静かに輝いていた。




