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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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31/66

第31話 匂いの違い

夜の石造りの廊下は静かだった。


ローゼリアは、いつも通りルカリウスの部屋へ向かう。胸の奥が、ほんの少しだけ熱い理由は考えないようにしながら。


扉を開けると、ルカリウスは窓辺に立っていた。紫の瞳が、ローゼリアを映すとすぐに柔らかくなる。ローゼリアが近づいた瞬間、空気がわずかに変わった。ルカリウスの視線が止まる。一拍。二拍。


「……匂いが違う」


責める声ではなく、ただ事実を告げるだけの音。ローゼリアの心臓が跳ねる。黙ったまま、ルカリウスを見上げる。


ルカリウスは一歩近づく。指が肩に触れ、ゆっくりと首筋をなぞる。確かめるように。甘い薔薇と白いムスクの奥に──ほんのわずかに混じる、冷たいシダー。


ルカリウスの喉が、ひとつ鳴った。本能がはっきりと感じる。


(──触れられた。匂いがつくほど)


自分以外の血が、わずかに共鳴している。問い詰めない。ただ、ローゼリアの腕を掴み引き寄せる。


「……観測室か」


低く囁くような声。否定の余地を残す響き。けれど胸の奥では、嫉妬が静かに燃えていた。ローゼリアは何も言えなかった。少しの沈黙に耐えきれず目線を逸らした。


ルカリウスはローゼリアの顎を掴み、顔を正面に向けると翡翠の瞳を覗き込んだ。目線を無理矢理合わせ、息を吐いた。


「上書きする」


その言葉と同時に、ルカリウスの左目の奥で赤が一瞬だけ浮かぶ。ローゼリアの腕を掴んだ指先がわずかに強くなる。


ローゼリアの指がルカリウスの胸元の布を掴む。唇が静かに重なった。浅かった重なりが、すぐに深くなる。確かめるキスではない。奪い返すような、長い口づけ。ローゼリアの息が揺れる。ルカリウスの喉奥が低く鳴った。いつもより甘い。その奥に、ほんのわずかに残る別の気配。


崩れていく理性の中で、ルカリウスの牙がローゼリアの下唇を裂いた。下唇に滲んだ赤を、ゆっくりと吸い取っていく。時折、深く舌を絡めながら。口の内側と、流れ込む血。その両方を味わうように。


「っ……」


小さな声が漏れる。身体の奥が、溶けるように熱くて緩んでいくような感覚。ルカリウスの呼吸が荒くなる。ベチバーの熱に溶かされるように、ローゼリアの甘い香りがほどけていく。血も香りも甘さが増していく。ローゼリアの血を受け取る代わりに、ルカリウスの匂いを血に刻んでいく。


息が苦しいのに身体は解けていく。ようやく唇が離れる。ルカリウスの唇の端に、赤が滲む。紫の瞳の奥には、わずかな赤が灯っていた。


ルカリウスは無言のまま、目線だけを逸らす。ローゼリアの呼吸は甘く乱れている。


「……ルカ」


名を呼ぶ声が溶ける。ルカリウスは額を重ねる。鼻先が触れる。匂いを深く吸い込む。さっきまであった冷たい残滓は、ほとんど消えていた。自分の匂いが強い。満足したわけではない。一瞬だけ、確かめるように息を吸う。それでも、確信する。


「……消えたな」


低く呟くと、確認するようにもう一度ローゼリアの髪へ顔を埋める。ルカリウスは静かに息を吐いた。


「ルカ……?」


呼びかけた瞬間だった。ふわりと身体が浮く。


「えっ」


驚くローゼリアを無視して、ルカリウスはそのまま抱き上げた。


「歩けるわ」


「知ってる」


それでも降ろさない。腕の中へ囲い込むように抱えたまま寝台へ向かう。


「……嫉妬深いのね」


小さく笑うと、ルカリウスはわずかに眉を寄せた。


「今さらだろ」


そのまま寝台へそっと下ろされる。ベチバーとアンバーの香りが近い。逃がさないように指先だけ絡められる。そのまま隣へ横になると、ルカリウスはローゼリアを腕の中へ引き寄せた。


寝台の上に横たわり、ローゼリアはルカリウスの胸に頬を預ける。鼓動の音を聞きながら、守られている安心感に包まれる。鼓動は静かだった。ローゼリアの心も、もう揺れていない。


(ルカと私はお互いの欠けたものを満たしていく)


(フィオと私はお互いの罪を隠し補っていく)


ベチバーとアンバーの香りに包まれるたび、ローゼリアの甘い薔薇が静かにほどけていく。


ルカリウスの指が、髪を優しく撫でる。問い詰めなかった。責めなかった。嫉妬を飲み込む代わりに、ただ、上書きした。そんなルカリウスが、どうしようもなく愛おしいと思う。胸の奥で、静かに言葉が落ちる。


(私は、ルカを愛してる)


揺らぎはない。セラフィオンのことを思うと、痛む。でもそれは恋ではない。彼の罪を知ってしまった痛み。そして、自分もまた罪を抱えた側だという感覚。──だからこそ、あの孤独に共鳴してしまう。


(──私は秘密を守るために、フィオの手を離せない)


「考え事か」


ルカリウスの指が、そっと顎に触れる。紫の瞳が真っ直ぐローゼリアを見下ろしていた。隠せない。けれど、もう誤魔化すつもりもなかった。


「ううん。何でもないわ」


ローゼリアは静かに指を絡める。


(……選んだだけ)


ルカリウスは何も聞かない。理由も、誰のことかも。ただ、絡んだ指を強く握る。


左目の奥で、赤はもう灯っていない。血も鼓動も、静かに安定していた。その温度に包まれるたび、ローゼリアの呼吸がゆっくりと深くなる。──ここが、自分の帰る場所なのだと、自然に思えた。


窓の外では、欠けた月だけが静かに輝いていた。

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