第30話 理性の崩落
研究塔の最奥。窓はない。月も入らない。
淡い蝋燭の光だけが、冷たい石壁を照らしていた。静寂の中に、規則的な音が落ちる。
ぽたり。ぽたり。赤い液体が、細い管を伝ってセラフィオンの腕へ直接落ちていく。袖をまくった白い腕に、細い針が刺さっている。血は外へではなく、内へと流れていく。吸血族の保存血。観測用に純化された、王族性を含まないただの血だ。それを、静脈へ直接補填している。
星詠みの盤は、机の上で静かに脈打っていた。三点構造。中心にローゼリア、左にルカリウス、右にセラフィオン。微弱だが、確かに成立している。そして右点は、わずかに摩耗している。
「……これでいい」
ルカリウスが受け取った王族性の負荷。ローゼリアから移った微量の再配分。その歪みを、今は自分が吸収している。理論上は想定内。理性はそう告げている。それなのに、指先が冷たい。視界の端が、わずかに揺れた。
そのとき──石床を打つヒールの音が、静かな研究塔に響く。ゆっくりと扉が開いた。
「……フィオ?」
振り返る前に分かる。ローゼリアだ。セラフィオンの呼吸が、ほんの一拍だけ止まる。扉の前に立つローゼリアの視線が、机の上へ落ちる。針と管と滴る赤。
「それ……何?」
問いは柔らかい。責めているのではなく、ただ、知らないものを見る瞳だった。吸血の形は様々だ。──これは、そのどれにも当てはまらない。
「保存血です」
セラフィオンは迷わず答える。淡々と。
「吸血族の血を純化したもの。……あなたの減少値を安定させるための補填です」
嘘ではない。ローゼリアの鼓動が、わずかに速くなる。
「……私の?」
「負荷を減らすための手段でした」
「負荷を減らす?」
「はい。三点構造は成立しています。あなたの王族性は崩壊ではなく再配分されている」
ローゼリアの眉がわずかに寄る。完全には理解できない。けれど──自分の知らない場所で、何かが進んでいることだけは分かった。
「その歪みを均す役割が必要でした」
一拍置いて、セラフィオンは視線を上げる。
「だから、私が引き受けています」
その言葉は合理だった。けれど、セラフィオンの指先は震えていた。針の周囲に、わずかな赤が滲む。
「どうしてあなたがそこまで……?」
「……この歪みは、私が生んだものだ」
青い瞳は静かなまま、言葉を続ける。
「なら、私が引き受けるのが筋でしょう」
ローゼリアの睫毛が、わずかに揺れる。その言葉が理屈ではなく、懺悔に近い温度を帯びていることに、気づいてしまったからだ。ローゼリアは、ゆっくりと近づくと管を辿り、管の繋がる先にあるセラフィオンの腕へと手を伸ばす。滲んだ血に指先が触れた。
その瞬間、血の奥で何かが弾けた。血を伝い脳裏に像が浮かぶ。
──赤い雪。ルカリウスが、倒れる。そして──青い瞳。途切れた映像。
「フィオ……まさか……」
セラフィオンは目を逸らさなかった。翡翠の瞳が揺れながらも刺す。青い瞳は逸れない。その瞬間だけ、観測者の仮面が静かに軋んだ。
「……彼は王座に近づきすぎた。均衡が崩れる可能性があった」
それは、理路整然。完璧な合理。
「私は、王家の安定を優先した。……それだけです」
嘘ではない。けれど、語尾だけがわずかにかすれていた。ローゼリアの胸が締めつけられる。
「私が禁忌を使うとは、予測していなかったのね」
青い瞳が、わずかに揺れる。
「私は王家を守った。均衡を守った。国にとって正しい判断だった」
喉が詰まる。理性が、追いつかない。
「……それでも」
「あなたが、あの騎士を選ぶ前に」
「全てを終わらせるべきだった」
それは合理ではなく私情であり嫉妬。そして、遅すぎた本音。セラフィオンの指が、わずかに震えた。
「……ですが」
「あなたが彼を選んだ以上、私は観測者でいるべきだった」
理性が戻ろうとする。だがもう遅い。ローゼリアは、全部聞いてしまった。合理も。本音も。
滴下音が、まだ続いている。
“全てを終わらせるべきだった”その言葉が、まだ空気の中に残っていた。
理性の奥に隠していた本音と嫉妬。ローゼリアの胸が、静かに痛む。許せない。赦したくもない。それでも、この人の苦しみだけは理解してしまう。
あの夜、セラフィオンは王家を守った。けれど同時に、自分で歪ませた未来に、自分自身までが巻き込まれている。
(私と同じね。……この血に縛られている)
ローゼリアは、ゆっくりと歩み寄った。点滴の管が、かすかに揺れる。青い瞳がわずかに警戒する。拒絶を待っている目だった。それでもローゼリアは腕を伸ばした。セラフィオンを、そっと抱きしめる。
冷たいはずの身体が、わずかに強張る。その震えが、伝わってくる。この人はずっと、血ではなく心を削ってきたのだと、ローゼリアは知っている。
「……近づかないでください」
崩れそうな声だった。拒絶ではない。
「私は、あなたから赦される立場ではない」
それでもローゼリアは離れない。もしルシエルが生きていたなら。ローゼリアは王女のままで、セラフィオンは婚約者のままだったのかもしれない。誰も傷つかない、そんな優しい未来も確かにあった。
ローゼリアは血を削り、セラフィオンは心を削っている。ルカリウスだけが、まだ何も知らない。
「フィオ」
名を呼ぶ。それだけで、理性に小さな亀裂が入る。
「ひとりで抱えないで」
一番危険な言葉だった。セラフィオンの指が、ローゼリアの背を掴む。その温度に触れた瞬間、張り詰めていたものが、音もなく軋んだ。点滴の管が大きく揺れる。針の周囲に赤が滲み、それでもセラフィオンは気づかない。
次の瞬間には、ローゼリアを強く抱き寄せていた。額が触れる。呼吸が混ざる。唇まであとわずか。それでもセラフィオンは動けなかった。
ローゼリアの呼吸が止まる。瞳を大きく開いたまま、動けなかった。至近距離で揺れる青い瞳から目を逸らせない。この熱を拒むことができない。セラフィオンの震えが、あまりにも正直だったから。
奪いたくて殺したわけじゃない。守るための選択だった。それでも欲しかったのだと──その震えが語っている気がした。
血が、かすかに反応する。小指の青い薔薇が熱い。セラフィオンの視線が、一瞬だけローゼリアの首筋へ落ちる。呼吸が止まる。
この人は今、とても危うい場所にいる。それなのに──触れない。触れれば何かが変わってしまうと知っているみたいに。青い瞳だけが、苦しそうに揺れた。
腕が動いた弾みで細い管が強く引かれる。ぷつり、と小さな音。針が抜け、赤が石床へ滴った。セラフィオンの息が、わずかに乱れる。観測者なら、本来あり得ない失態だった。それでも──もう、理性は戻らない。
ローゼリアの指が、そっとセラフィオンの頬に触れる。セラフィオンは、その手を振り払えなかった。壊れかけの観測者の青い瞳は、まだ揺れていた。滴り落ちた赤が、石床に静かに広がっていく。三点構造は、さらに深く沈む。
「……私は、ルカを愛してる」
翡翠の瞳がまっすぐ青い瞳に向き合う。
「でも……あなたの気持ちも、わかってしまう」
だからといって、あの日のことが消えるわけじゃない。それが、一番残酷だった。セラフィオンの息が、崩れる。赦されたわけでもない。選ばれたわけでもない。けれど、拒絶はされなかった。それだけで、理性はもう戻らない。
それでも──三人の均衡には、確実にひびが入った。




