第29話 静かに始まる変異
王族の船が、水路をゆっくりと進んでいく。絵の中を滑るみたいに。
橋の上。エリオは欄干にもたれながら、その船を眺めていた。
隣には、黒髪に眼鏡の男。アルベリク・ノア。人間の画家。膝の上にはスケッチ帳。細い指が、静かに鉛筆を動かしている。
「……動かないでください。今、いい構図なんです」
エリオは覗き込む。
「え、僕を描いてる?」
「描いてます」
「勝手に?」
「はい」
エリオはくすりと笑う。
「……じゃあ、モデル料くらい貰わないと」
アルベリクは手を止めない。
「全部あなたが買うでしょう」
「バレてる」
「いつもそうじゃないですか」
「だってアルの絵、好きだし」
そう言いながら、アルベリクの肩に軽く顎を乗せる。柑橘の香りがふわりと弾けた。
「ねえ、アル、見て」
王族の船の上で、ローゼリアとルカリウスの距離が近い。
「……王女殿下ですか」
「うん。僕の従姉妹」
「随分、堂々としていますね」
「見せてるんだよ。ルカ兄が」
◇◇◇
舟が橋の影へ滑り込んだころ、ローゼリアが橋を見上げた。
「あれ……エリオ?」
欄干にもたれたキャラメル色の髪。その隣には、黒髪で眼鏡をかけた男。スケッチ帳を持つ画家。エリオがローゼリアの声に気づき、ぱっと顔を上げる。
「リア!」
軽く手を振る。ローゼリアも笑って手を振り返す。
「エリオ、そこで何してるの?」
「デート!」
「ふふ、一緒ね!」
軽い会話にエリオはくすくすと笑う。ローゼリアの傍で、ルカリウスはゆっくりと視線を上げた。橋の上のエリオの金の瞳が、ルカリウスを見る。視線が重なった瞬間、笑顔の奥の何かがほんの少しだけ変わった。
その直後──カチ。小さな音。エリオの指先が止まる。ポケットの中の懐中時計。秒針が一拍だけ、遅れた。
「……あれ?」
アルベリクが顔をエリオに向ける。
「どうしました?」
エリオの視界が、ほんの一瞬だけ揺れた。花の満ちる水路に赤い花びら。王族の船がゆっくりと進んでいく。その景色が突然、白く染まる。
静かな夜に降り積もる雪。そして、白い雪の上に広がる赤い血。ローゼリアの右手首に、もう戻らない形で咲いている深紅の薔薇──。エリオの呼吸が止まる。
「エリオ?大丈夫ですか?」
アルベリクの声で視界が戻る。花びらが水面を流れ、王族の船は橋の影へゆっくりと滑り込んでいく。
「なんでもないよ」
エリオのいつもの軽い声。ポケットの中で、懐中時計を握る指が少しだけ強くなる。
船が橋の真下に入り光が消えると、世界が一瞬だけ静かになる。その暗がりの中で、ルカリウスは橋を見上げたままだ。紫の瞳と、エリオの金の瞳がまっすぐぶつかる。紫の瞳が、金の瞳を射抜く。見られた、というより──測り返された気がした。
ルカリウスの左目が、ほんの一瞬だけ熱を帯びた。紫の奥で、微かに金が滲む。エリオの瞳が、ふっと細くなった。
「ルカ兄も、楽しそうじゃん!」
「まあな」
短い返事だけれど、その声の奥には熱が残っている。船が橋を抜ける。光が戻る。ローゼリアが橋を見上げて声を上げた。
「デート楽しんでね、エリオ!」
「リアも楽しんで!」
エリオは、いつもの笑顔で手を振る。ルカリウスの中には、まだ、エリオの金の瞳に測られた感触が残っていた。
◇◇◇
船はゆっくりと遠ざかる。赤い花びらが、あとを追うように水面を流れていく。エリオの隣で、離れていく船を見つめながらアルベリクが静かに言った。
「王女殿下と……騎士ですか」
「うん。リアの恋人」
「戦勝パレードで見たことがあるくらいですが……強い人ですよね」
「強いよ」
エリオは小さく笑った。
「たぶん、誰よりもね」
アルベリクが横顔を見る。
「エリオ?」
「なんでもない」
ポケットの中で懐中時計が小さく鳴る。カチ。
王族の船はもう見えない。ただ、花びらだけが赤い道を作りながら、静かに流れていた。
◇◇◇
夜は、まだ満ちていない。
王宮の回廊を、静かな風が抜けていく。月は細く、淡い光を石床へ落としていた。
ルカリウスは足を止めた。左目の奥が、かすかに脈打つ。痛みではない。暴走の兆候とも違う。けれど血だけが、静かに騒いでいた。熱はすぐに引いたのに、違和感だけが胸の奥へ残っていく。
満月は、まだ遠い。本来なら、血が先に目を覚ますことなどない。なのに胸の奥で、何かがゆっくりと動いている。呼吸の奥を掴まれるみたいに。
ルカリウスは無意識に振り返った。回廊の向こう。月明かりの中に、ローゼリアがいた。
「ルカ?」
翡翠の瞳が、静かに瞬く。その瞬間、ダマスクローズに混ざる甘さが、ふわりと熱を帯びた。アイリスの静かな香りの奥で、血の甘さだけが妙に鮮明になる。ルカリウスの呼吸が、わずかに止まった。吸血していない時でさえ、ローゼリアの血が呼んでくる。王族性が、静かに馴染み始めている。
ローゼリアが一歩近づく。その距離、その体温、その匂いに喉の奥が熱くなる。衝動ではない。もっと深い、本能に近い何かだ。
「……どうしたの?」
ローゼリアが首を傾げる。ルカリウスはゆっくりと息を吐いた。
「……なんでもない」
まだ、問題とは呼べない。ただ──少しずつ、血が変わり始めている。ローゼリアはそれ以上聞かなかった。ただ静かに近づいて、ルカリウスの腕をそっと掴む。
「顔色が悪いわ」
「そう見えるか」
「ええ……少しだけ」
月明かりの下で、二人の影が近づく。ルカリウスはローゼリアを見下ろす。今はまだ、血は静かだった。けれど身体の奥底で、確かに何かが目を覚まし始めていた。
◇◇◇
その頃。研究塔の最上階では、星詠みの盤がかすかに揺れていた。セラフィオンの指が止まる。
波形は安定している。崩壊もない。暴走もない。それなのに、盤の中央にごく薄い円が浮かび上がる。まだ閉じていない。けれど──昨日より濃い。
「動いている……」
低く漏れる声。満月はまだ先だ。それでも式は、静かに深く沈み始めている。血が、自律している。理論ではまだ説明しきれない。だが直感だけは告げていた。
(──次の満月は、何かが違う)
もう、誰も同じ場所には戻れない。
◇◇◇
同じ頃。王宮の自室のバルコニーから、エリオは夜空を見上げていた。
ポケットの中で、懐中時計の秒針が鳴る。カチ。その音が、ほんの一拍だけ揺れた。エリオは目を細める。
(……思ったより、早いね)
誰に言うでもなく呟く。風に紛れるほどの声で。遠くの城を見つめる。金の瞳が、静かに細くなった。
「ちゃんと王になりなよ」
(……その前に、僕か)
エリオは目を閉じた。
「間に合えばいいね」
夜風が吹く。ポケットの中で、懐中時計だけが規則正しく時を刻んでいた。
カチ。カチ。カチ。




