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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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28/66

第28話 恋人の距離

温かな日差しが、どこか場違いに差し込んでいた。


冷たい季節は去り、やわらかな風が水路沿いの花を揺らしている。王都のこの季節には、深紅のラーレが一斉に咲き始める。石造りの運河の両岸を埋めるように咲く花は、風が吹くたびに揺れ、ときおり花びらを水面へ落とす。ゆっくりと流れていく赤。まるで水路そのものが、静かな色を運んでいるみたいだった。


「こんな温かい日は、船上から花を眺めたいわ」


ローゼリアが窓の外を見ながら呟く。


「それをリア様が口にすると、本当に船が用意されるのですから恐ろしいですね」


ミレイユがため息をついた。


「だって見たいんだもの」


「その一言で侍従達が走り回っております」


「ありがとう、と伝えておいて」


ローゼリアが笑う。ミレイユは肩をすくめた。


「伝えておきます。どうせ皆喜びますから」


「護衛はルカリウス様だけでよろしいのですか?」


「ええ」


「絶対こうなると思っていました」


「何が?」


「いえ」


ミレイユは視線を逸らした。


白い船体に金の装飾。舳先には薔薇の紋章。日差しを受けて、細工された金がやわらかく光っている。花見のためだけに用意された船とは思えないほど、それは優雅で、穏やかな春の水面によく映えた。


「では、私は後方の船におりますので」


「ミレイユ?」


「空気は読みます」


ローゼリアが乗り込むと、船はゆっくりと水路を進み始める。護衛の船は距離を取って後ろに控え、この時間だけ、王女の世界が少し広がったみたいだった。


「……贅沢だな」


低い声が、背後から落ちる。振り返らなくても分かる。


「ルカ」


銀髪が光を受けて淡く輝く。あの夜から、二人の距離はもう戻らない。ルカリウスは船の縁に軽く手を置き、周囲を一度だけ確認してから空を見上げた。


「王族とはこういうものよ」


ローゼリアはくすりと笑う。


「嫌い?」


「嫌いではない」


短い答え。それから少し間を置いて、付け足す。


「お前が楽しそうなら、それでいい」


ローゼリアは、少しだけ目を細めた。風が吹く。花びらが一斉に舞い、いくつかが船の上に落ちる。深紅の一枚をそっと摘み上げると、ローゼリアは掌の上でそれを見つめた。次の風が吹いた瞬間、花弁は静かに空へ攫われていく。


「綺麗ね」


水面には、流れていく花びらが赤い道を作っている。


「……血みたいだ」


ルカリウスが低く呟く。血──あの血に染まった未来には、もう進まない。ローゼリアは呼吸を整えた。


「吸血族らしい表現ね」


「支配の色だな」


──赤は王家の色。ノクティスの色。


その言い方が少しだけ遠く感じて、ローゼリアは顔を上げる。距離は近い。豪奢な船の上なのに、この空間だけが妙に静かだった。


「ねえ、ルカ」


「なんだ」


少しだけ言葉を探す。


「……ずっと隣にいて」


背後に控える護衛ではなく、隣に並ぶ恋人として。風が止まる。ルカリウスの瞳が、ほんのわずかに揺れた。そしてルカリウスは、静かにローゼリアの手を取る。


「ああ」


ほんのわずかに視線を逸らして、短く言う。でも手は指を絡めて強く握り締めた。


船はゆっくりと水路を進んでいた。


櫂の音もほとんど聞こえない。ただ水が揺れ、深紅の花びらが流れていく。王都の風は穏やかだ。それでも、ローゼリアの胸の奥はどこか静かに高鳴っていた。


こんな時間は久しぶりだった。王女でもなく、命令でもなく、契約でもなく、ただルカリウスと並んでいるだけの時間。


王都の橋の上には花見を楽しむ貴族たちの姿も見えていた。その視線が、次第にこちらへ集まり始める。


「……視線を感じる。見られてるな」


いつの間にか背後へ回っていたルカリウスの腕が、ローゼリアの腰を抱き寄せる。


「王族の船だもの。目立つわ」


「違う」


「お前を見ている視線だ」


ローゼリアは少しだけ肩をすくめた。確かに、橋の上の若い貴族たちがこちらを見て何か話している。好奇心。羨望。そして少しの無遠慮。その視線に、ルカリウスの腕がわずかに強くなる。


「王女だからでしょう?見るのは当然よ」


「……気に入らない」


ルカリウスはそのまま背後から、外套でローゼリアを隠すように覆った。


「ルカ?」


「理由は関係ない」


「お前を、あの視線の前に晒したくない」


その言葉に、ローゼリアの胸が鳴った。風が吹く。花びらが舞い、二人の足元へ落ちる。ローゼリアはふっと笑った。


「それって……嫉妬?」


ルカリウスは一瞬黙る。それから、わずかに息を吐いた。


「……そうだな」


あまりにもあっさり認める言葉に、ローゼリアの方が驚いた。


「否定しないの?」


「する理由がないだろ」


周囲の音が、少しずつ遠ざかっていく。この距離だけが、妙に静かだった。


「お前は、どれだけ目立つか分かっていない」


「王女だからよ」


「そういう意味じゃない」


ローゼリアは身体をルカリウスの方へ向けた。ルカリウスの指が、ローゼリアの頬に触れる。


「……綺麗だな」


護衛騎士ではなく、ただの男の声だった。それは景色のことなのか、それとも──。ローゼリアの心臓が一拍遅れる。


強い風が吹きルカリウスの外套が弧を描くように広がる。ローゼリアの長い髪が揺れる。


翡翠と紫の視線が重なる。無言のまま、ルカリウスはローゼリアの顎を軽く持ち上げる。


「ルカ?」


問いかける前に、唇が塞がれた。確かめるような、静かなキス。水面が揺れる。花びらがゆっくりと流れていく。橋の上のざわめきが、遠くで小さく聞こえた。唇が離れる。けれど手は離さない。


「……これならいい」


「え?」


「どうせ見られるなら、な」


ローゼリアが首を傾げる。ルカリウスは答えない。ただ橋の上を一度だけ見上げた。その視線だけで十分だった。ローゼリアは小さく笑う。


「ルカらしくないわね」


ルカリウスは答えなかった。ただ、外套を引き寄せる腕に少しだけ力が入る。


「……腕の中に隠しておきたい」


その声は風に紛れるほど小さかった。


「いいわよ。隠して」


ローゼリアは笑った。ルカリウスは今度は正面から外套で閉じ込めるようにローゼリアを包んだ。


外套の中で、もう一度唇が触れた。今度は静かに、ふたりだけの温度で。


満月は、まだ遠い。それでも血は、静かに騒ぎ始めていた。



◇◇◇



船はゆっくりと水路を進む。その先の橋の上で、ひとりの青年が足を止めていた。金色の瞳。その隣には、絵筆を持った黒髪の画家。


エリオだった。


「……うわ」


小さく呟く。


「すっかり、二人だけの世界じゃん」


カチ、と秒針が鳴った。その音だけが、妙に大きく聞こえた。

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