第28話 恋人の距離
温かな日差しが、どこか場違いに差し込んでいた。
冷たい季節は去り、やわらかな風が水路沿いの花を揺らしている。王都のこの季節には、深紅のラーレが一斉に咲き始める。石造りの運河の両岸を埋めるように咲く花は、風が吹くたびに揺れ、ときおり花びらを水面へ落とす。ゆっくりと流れていく赤。まるで水路そのものが、静かな色を運んでいるみたいだった。
「こんな温かい日は、船上から花を眺めたいわ」
ローゼリアが窓の外を見ながら呟く。
「それをリア様が口にすると、本当に船が用意されるのですから恐ろしいですね」
ミレイユがため息をついた。
「だって見たいんだもの」
「その一言で侍従達が走り回っております」
「ありがとう、と伝えておいて」
ローゼリアが笑う。ミレイユは肩をすくめた。
「伝えておきます。どうせ皆喜びますから」
「護衛はルカリウス様だけでよろしいのですか?」
「ええ」
「絶対こうなると思っていました」
「何が?」
「いえ」
ミレイユは視線を逸らした。
白い船体に金の装飾。舳先には薔薇の紋章。日差しを受けて、細工された金がやわらかく光っている。花見のためだけに用意された船とは思えないほど、それは優雅で、穏やかな春の水面によく映えた。
「では、私は後方の船におりますので」
「ミレイユ?」
「空気は読みます」
ローゼリアが乗り込むと、船はゆっくりと水路を進み始める。護衛の船は距離を取って後ろに控え、この時間だけ、王女の世界が少し広がったみたいだった。
「……贅沢だな」
低い声が、背後から落ちる。振り返らなくても分かる。
「ルカ」
銀髪が光を受けて淡く輝く。あの夜から、二人の距離はもう戻らない。ルカリウスは船の縁に軽く手を置き、周囲を一度だけ確認してから空を見上げた。
「王族とはこういうものよ」
ローゼリアはくすりと笑う。
「嫌い?」
「嫌いではない」
短い答え。それから少し間を置いて、付け足す。
「お前が楽しそうなら、それでいい」
ローゼリアは、少しだけ目を細めた。風が吹く。花びらが一斉に舞い、いくつかが船の上に落ちる。深紅の一枚をそっと摘み上げると、ローゼリアは掌の上でそれを見つめた。次の風が吹いた瞬間、花弁は静かに空へ攫われていく。
「綺麗ね」
水面には、流れていく花びらが赤い道を作っている。
「……血みたいだ」
ルカリウスが低く呟く。血──あの血に染まった未来には、もう進まない。ローゼリアは呼吸を整えた。
「吸血族らしい表現ね」
「支配の色だな」
──赤は王家の色。ノクティスの色。
その言い方が少しだけ遠く感じて、ローゼリアは顔を上げる。距離は近い。豪奢な船の上なのに、この空間だけが妙に静かだった。
「ねえ、ルカ」
「なんだ」
少しだけ言葉を探す。
「……ずっと隣にいて」
背後に控える護衛ではなく、隣に並ぶ恋人として。風が止まる。ルカリウスの瞳が、ほんのわずかに揺れた。そしてルカリウスは、静かにローゼリアの手を取る。
「ああ」
ほんのわずかに視線を逸らして、短く言う。でも手は指を絡めて強く握り締めた。
船はゆっくりと水路を進んでいた。
櫂の音もほとんど聞こえない。ただ水が揺れ、深紅の花びらが流れていく。王都の風は穏やかだ。それでも、ローゼリアの胸の奥はどこか静かに高鳴っていた。
こんな時間は久しぶりだった。王女でもなく、命令でもなく、契約でもなく、ただルカリウスと並んでいるだけの時間。
王都の橋の上には花見を楽しむ貴族たちの姿も見えていた。その視線が、次第にこちらへ集まり始める。
「……視線を感じる。見られてるな」
いつの間にか背後へ回っていたルカリウスの腕が、ローゼリアの腰を抱き寄せる。
「王族の船だもの。目立つわ」
「違う」
「お前を見ている視線だ」
ローゼリアは少しだけ肩をすくめた。確かに、橋の上の若い貴族たちがこちらを見て何か話している。好奇心。羨望。そして少しの無遠慮。その視線に、ルカリウスの腕がわずかに強くなる。
「王女だからでしょう?見るのは当然よ」
「……気に入らない」
ルカリウスはそのまま背後から、外套でローゼリアを隠すように覆った。
「ルカ?」
「理由は関係ない」
「お前を、あの視線の前に晒したくない」
その言葉に、ローゼリアの胸が鳴った。風が吹く。花びらが舞い、二人の足元へ落ちる。ローゼリアはふっと笑った。
「それって……嫉妬?」
ルカリウスは一瞬黙る。それから、わずかに息を吐いた。
「……そうだな」
あまりにもあっさり認める言葉に、ローゼリアの方が驚いた。
「否定しないの?」
「する理由がないだろ」
周囲の音が、少しずつ遠ざかっていく。この距離だけが、妙に静かだった。
「お前は、どれだけ目立つか分かっていない」
「王女だからよ」
「そういう意味じゃない」
ローゼリアは身体をルカリウスの方へ向けた。ルカリウスの指が、ローゼリアの頬に触れる。
「……綺麗だな」
護衛騎士ではなく、ただの男の声だった。それは景色のことなのか、それとも──。ローゼリアの心臓が一拍遅れる。
強い風が吹きルカリウスの外套が弧を描くように広がる。ローゼリアの長い髪が揺れる。
翡翠と紫の視線が重なる。無言のまま、ルカリウスはローゼリアの顎を軽く持ち上げる。
「ルカ?」
問いかける前に、唇が塞がれた。確かめるような、静かなキス。水面が揺れる。花びらがゆっくりと流れていく。橋の上のざわめきが、遠くで小さく聞こえた。唇が離れる。けれど手は離さない。
「……これならいい」
「え?」
「どうせ見られるなら、な」
ローゼリアが首を傾げる。ルカリウスは答えない。ただ橋の上を一度だけ見上げた。その視線だけで十分だった。ローゼリアは小さく笑う。
「ルカらしくないわね」
ルカリウスは答えなかった。ただ、外套を引き寄せる腕に少しだけ力が入る。
「……腕の中に隠しておきたい」
その声は風に紛れるほど小さかった。
「いいわよ。隠して」
ローゼリアは笑った。ルカリウスは今度は正面から外套で閉じ込めるようにローゼリアを包んだ。
外套の中で、もう一度唇が触れた。今度は静かに、ふたりだけの温度で。
満月は、まだ遠い。それでも血は、静かに騒ぎ始めていた。
◇◇◇
船はゆっくりと水路を進む。その先の橋の上で、ひとりの青年が足を止めていた。金色の瞳。その隣には、絵筆を持った黒髪の画家。
エリオだった。
「……うわ」
小さく呟く。
「すっかり、二人だけの世界じゃん」
カチ、と秒針が鳴った。その音だけが、妙に大きく聞こえた。




