第27話 境界線を越える夜
「……足りないの」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、音もなく切れた。月は欠けている。血は静かだった。暴走の気配はない。それでも、理性だけは彼女の声ひとつで崩れていった。
「……足りない?」
確認するような声だった。聞き返したのは、その一言で何もかもが変わってしまうと分かっていたからだ。ダマスクローズの香りが、いつもより近い。ローゼリアはゆっくりと頷いた。
「ルカが……足りない」
頭の隅で護衛騎士としての理性が何かを告げていた。もう、その声は届かなかった。自分の中で、何かが静かに外れた。逃げる時間を与えるように、ゆっくりと距離を詰める。あと少しで息が触れ合うほど近づいても、まだ唇には触れない。
「……まだ、戻れる」
そう囁いても、ローゼリアは離れなかった。戻ってほしいのか、戻らないでほしいのか。自分でも分からないまま、答えを待った。ただ、逃げる代わりにそっと瞼を閉じる。
ルカリウスは顎を掬い、壊れ物に触れるように、そっと唇を重ねた。
最初は浅く触れただけだった。けれどすぐに深く絡み合い、離れる理由を失くしたみたいに長く重なり合う。唇が離れるたび、もっと欲しくなる。
ローゼリアの呼吸が揺れるたびに、胸の奥がわずかに軋んだ。腕を回すと、縋るように抱き返してくる。
「……戻れなくても、いいのか」
最後の自制だった。ローゼリアは、ゆっくりと首を縦に振る。その小さな頷きに、ルカリウスは目を閉じた。指先を探るように重ねると、小指だけが自然に絡んだ。
その瞬間、絡めた小指の内側が微かに熱を持つ。脈に合わせるように薔薇の縁が一瞬だけ濃く滲んだ。──最後の境界線が、静かに溶けていった。
「……ルカ」
ルカリウスは小さく息を吐くと、ローゼリアの身体を抱き上げた。
「きゃっ」
驚いた声が漏れる。けれどすぐに首へ腕が回された。思わず眉を寄せるほどに軽い。ローゼリアはルカリウスの肩へ額を寄せた。
「……軽すぎる」
「気のせいよ」
「嘘をつくな」
ローゼリアは答えないまま、誤魔化すように微笑んだ。腕の中の重さが、足りない。この熱の中で、そこだけが冷たかった。
石造りの部屋は静かだった。月明かりだけが床を照らし、二人の影を長く伸ばしている。ルカリウスは寝台の傍まで歩くと、壊れ物を扱うようにそっとローゼリアを降ろした。
ルカリウスの指先が、ローゼリアの輪郭を確かめるようになぞっていく。宝物に触れるような、優しい手つきで。まるで、ようやく手にしたものが消えないか確かめるみたいに。
ローゼリアの腕が、背へ縋るように回る。そのまま、首筋へ唇を押し当ててくる。その動きに浅く息を呑んだ。触れられたのは肌なのに、もっと深い場所が先に反応した。
ルカリウスの指先が、ドレスの編み紐をゆっくりとほどいていく。一本、また一本。ほどけていくたびにローゼリアの呼吸が熱を帯びる。急げば済むことを、急げなかった。この夜を、少しでも引き延ばしたかった。
衣擦れの音が夜に溶け、甘い息が混ざる。体温が静かに絡んでいく。
「リア……」
指先で腰の曲線をゆっくり辿った。強く抱けば砕けてしまいそうな細さに、指先が止まる。その指先の動きに、ローゼリアが息を止めた。
「ん……っ」
太腿の内側に指先が触れた瞬間、ローゼリアの呼吸が乱れた。ただ、深いところを探るように、わざと動きを遅くした。ローゼリアの腰が小さく震えるたび、あえて動きを止めた。そのたびに、翡翠の瞳が潤んでいく。
「……ルカ」
堪えきれない声で名前を呼ばれる。その声に手が止まる。視線がその先を求めているのがわかった。ローゼリアの肌が熱い。ダマスクローズの甘さが強くなる。その熱と香りに背筋がぞくりと震えた。
「……なんだ」
長年近くで見てきたからこそ、この視線が求める答えは分かっている。王女であるローゼリアが簡単に縋る言葉など、口にできないのを知っている。だからこそ、わざと聞いた。ローゼリアは唇を噛むだけだった。
「言ってみろ」
「ずるいわ……」
ずるいのは分かっていた。それでも、この女が自分にだけ縋る声を、聞かずにいられなかった。自分の願いだけで、越えてはいけなかった。
「俺に何を望んでいる」
「もっと……して」
わざと聞いたのは自分なのに。十一年積み重ねた想いと、四年間護衛として守り続けた規律が溶けていくようだった。口元が、わずかに歪む。ローゼリアが顔を赤らめ視線を逸らそうとするのを見て、顎を掴み、逸らしかけた視線を戻させた。
「……もっと、か」
ローゼリアが首を縦に小さく動かした。その動きに喉が低く鳴る。ホワイトムスクが弾け、バニラの甘さがほどけていく。細い腰を引き寄せ、欠けたものを埋めるように、熱をゆっくりと沈めた。
「ル……カ」
その名を呼ばれた瞬間、もう無理だった。
初めてのはずなのに。身体だけが、その続きを知っていた。
ローゼリアの匂いを深く吸い込みながら、腰をさらに奥へと沈めた。
「ん……っっ……あ……っ」
「……やっと、届いた」
何度、この温もりを夢に見ただろう。抱く腕に力がこもる。
赤い果実のような唇を離せないまま、失わないように深く沈むよう腰を引き寄せた。
──もうこの夜の前には、戻れない。
石造りの部屋は冷えているのに、寝台の上だけが呼吸をしているように熱を帯びていた。小さな灯りが揺れ、影が二人をひとつの輪郭に溶かしていく。
重なるたび、乱れていた呼吸が少しずつ揃っていく。
「噛ま……ないの……?」
浅い呼吸を繰り返しながら、夜気に溶けるような声でローゼリアが囁く。ルカリウスはすぐには言葉を返さない代わりに、額を重ねた。欲しくないわけがなかった。ただ今夜これ以上、この身体から何かを奪うのが怖かった。
「……ああ」
「いい……のに」
ローゼリアが、ためらいなく首筋を差し出す。命令でも懇願でもない。選ばれることを疑わない、無垢な信頼。その無防備さに、喉の奥が疼いた。
細く白い首筋に唇をそっと寄せる。舌先で首筋の脈を確かめながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。ダマスクローズ。ホワイトムスク。その奥で熟れたバニラが弾ける。
わずかに牙を沈め、皮膚を裂く。ほんの少量、吸う。
「……甘い」
王族の血だから甘い。──そういうことにしておきたかった。
甘いのは血だけじゃない。香りも、体温も、呼吸も。全部が──。
もう止められなかった。ローゼリアを強く抱きしめたまま奥を深く突き上げた。その瞬間、ローゼリアの内側が強く収縮し、ルカリウスを締めつけた。
「……リア」
「あ……っっん」
中に熱を放出すると、ローゼリアの身体が小さく震えた。ダマスクローズがゆっくりと開き、その熱が胸の奥へ沈んでいく。
「……熱が、流れてく」
その声に、返事はしなかった。首筋から唇を離さないまま、深く抱き寄せた。
もう言葉など、必要なかった。
肌に残る熱を逃したくなくて、強く抱きしめ合う。指が絡み、鼓動が重なり、体温が溶け合ったまま──二人は眠りに落ちた。
絡めたままの小指では、薔薇がまだ静かに脈打っていた。




