第26話 触れてはいけない温度
夜の研究塔は、音を持たない。
石壁が冷えた空気を閉じ込め、燭台の炎だけが静かに揺れている。星詠みの盤の光が、その揺れに合わせるように、ゆっくりと呼吸していた。
「脈を」
セラフィオンの声はいつも通りだ。冷静で、均衡を保った音。ローゼリアは素直に手を差し出す。触れた瞬間、脈ではなく血が先に反応した。袖口から、青く澄んだジュニパーベリーの香りが立つ。その奥でオゾンの冷気が刃のように走り、盤が強く脈打つ。空気がわずかに震えた。
三点構造。中心にローゼリア。左にルカリウス。そして右にセラフィオン。まだ完全ではない第三の波形が薄く重なり、一瞬だけ円環が描かれる。完璧に近い、静かな輪。
セラフィオンの呼吸が止まる。暴走ではない。侵食でもない。ただ──均衡。成立すれば、すべてが整うはずだった。
「……なんでかしら」
ローゼリアは小さく笑った。
「フィオといると、眠くなるの。不思議ね」
「……」
「安心するのかしら」
そう言って首を傾げる。セラフィオンは答えなかった。答えられなかった。そのときローゼリアの鼓動が、ひとつ遅れた。
「きっと、あなたの声のせいね」
血が熱を帯びる。甘い。ルカリウスに触れたときとは違う甘さ。もっと冷たいのに、深い。沈むような温度だった。
「フィオの手は冷たくて……心地いい」
そう呟きながら、ローゼリアは無意識に右手を握り込む。小指の先だけが、少し冷えていた。脈を測っているだけのはずの指先が、意味のある熱を生み出していく。夜気のようなわずかなオゾンが、二人のあいだで微かに揺れた。
「リア……」
(これは、ただの観測だ。なのに──)
円環が、もう一段強く脈打つ。セラフィオンの理性が、削れる。
(このまま……離したくない)
ローゼリアの呼吸が頬へ触れる。距離が消えかける。ジュニパーの冷たい香りが、思考より先に理性を崩していく。三点式が成立すれば、ローゼリアの減少は止まる。ルカリウスの負荷も軽くなる。完璧だ。なのに。
「……違う」
奪うのではない。救うためだ。そう思った瞬間に気づく。自分は今、奪おうとした。
気づけばセラフィオンの指先は、脈を測る位置を越えていた。引き寄せたつもりはなかった。それでも二人の距離は、もう息が触れるほど近かった。
「……フィオ?」
ローゼリアが戸惑うように名を呼ぶ。
翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見る。そこに恐怖はない。ただ、かすかな戸惑いと──懐かしい何か。
血が、もう一度強く鳴る。盤が暴れる寸前まで跳ねる。あと半歩。あと一息。触れれば、円は閉じる。けれど、セラフィオンはゆっくりと距離を戻した。
空気が冷える。円環は未完成のまま消え、共鳴は沈み、観測室は静寂を取り戻す。
「……今日はここまでです」
声は平坦。完璧な理性。それでも指先は、わずかに震えていた。
ローゼリアの血は、確かに自分を拒まなかった。そして──もう、外側には戻れなかった。
月は雲の奥に隠れかけている。血は覚えている。触れれば、完成することを。
そして──次は、止まらないかもしれないことを。
◇◇◇
ローゼリアが去った後の研究室は甘い匂いに満ちていた。ローゼリアの透き通った柔らかい声が、耳から離れない。セラフィオンは一度だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
机の引き出しから、小さなガラス瓶を取り出す。濃く、暗い赤。観測精度を保つために調整された血液。
封蝋を外し、器具を整える。手順は正確で、無駄がない。
袖をまくる。白い肌に浮かぶ静脈を、冷たい視線で見下ろす。針が皮膚を貫く。痛みは、ただの情報──のはずだった。
ひやり、と金属の冷えが血管の奥を辿る。慣れた感覚のはずなのに、その夜は喉の奥だけがわずかに反応した。
観測の精度を保つための、定量の摂取にすぎなかった。
これは欲ではない──そう言い聞かせながら、体温が上がった。視界の輪郭が、わずかに滲む。呼吸が、一拍遅れる。
針を抜く。滲んだ赤を布で押さえる指先が、必要以上に丁寧だった。シダーの香りに、ほんのわずかな熱が混じる。
インクと血の匂いが、ゆっくりと混ざる。
セラフィオンは、その混合を拒めなかった。
──拒めなかった。
◇◇◇
石壁はひんやりしているのに、胸の奥だけが燃えている。
ルカリウスの部屋は静かだった。月明かりが床に細い帯を引き、石と影を銀色に分けている。燭台の火は落としてある。それでも窓から差し込む光だけで、部屋の輪郭は見えた。ルカリウスの匂いが染み付いたこの場所が安心する。もう、この香りが近くにないと眠ることさえ怖い。
「……少しだけ、一緒にいて」
声に出した瞬間、喉の奥に甘い熱が残った。ルカリウスは何も聞かない。理由も、覚悟も、問いたださない。ただ、扉を閉める。その小さな音が、背中を震わせた。
まだ触れていないのに、空気が肌にまとわりつくほど近い。ベチバーの深い香りに包まれるだけで、張りつめていた呼吸がほどけていく。
視線が合う。紫の瞳は穏やかだ。あの満月の夜の赤は、もう沈んでいる。
「寒くないか」
肩に触れられた瞬間、体温がそこから広がる。もっと触れられたい。壊れることより、触れられないままの方が、もう怖かった。
「──ルカが温めてくれるんでしょう?」
ルカリウスの腕に縋るように指先を伸ばす。布越しに伝わる体温。規則正しい鼓動。どれだけ触れても、足りない。
紫の瞳から、視線が離せない。
「ねぇ……ルカ」
名前を呼ぶだけで、息が甘くなる。ルカリウスは黙ったまま柔らかく目を細め、一歩近づく。ダマスクローズが、身体からほどけるのが分かった。
「……足りないの」
ルカリウスは答えなかった。ただ、ゆっくりと目を伏せると空気を吸い込んだ。
血じゃない。契約でもない。抱きしめられたときに消える不安、その続きが欲しい。
だから──今夜は、逃げない。




