第25話 消えない声
「やっぱり、あなたは私の王子様ね」
少女は翡翠の瞳を輝かせながら、開口一番そう言った。
「……私をご存知なのですか」
「もちろんよ」
ローゼリアは胸を張った。
「だって今日あなたが王城に来るって聞いて、こっそり抜け出して来たんだもの」
「ずっとあなたに会いたかったの」
少女はそう言って笑った。白薔薇のアーチの下。陽光を受けた赤髪が揺れる。セラフィオンは、その光景から目を離せなかった。
細い腕には、大切そうに抱えた肖像画。
「いつもあなたの肖像画を眺めていたのよ」
「実物も素敵だわ」
ローゼリアは少し頬を染めた。
「声も好き」
セラフィオンは瞬きをした。肖像画には声がない。だからこそ、その言葉は予想していなかった。
「……私も」
少しだけ迷って答える。
「どんな声で話される方なのか、想像しておりました」
ローゼリアの瞳が嬉しそうに細くなる。
「また会えますか」
セラフィオンがそう尋ねる。ローゼリアは少し困ったように笑った。
「今はだめなの」
「お父様に怒られちゃうの」
「十歳になるまで外の人に勝手に会っちゃだめなんですって」
白い指が肖像画の端をなぞる。
「今も……見つかったら、叱られてしまうわ」
「そうですか……」
セラフィオンは視線を落とした。ローゼリアは慌てたように首を振る。
「でも二年だけよ」
翡翠の瞳がまっすぐ彼を見る。
「二年経ったら、いつでも会えるわ」
当然の未来を語るように。
「だって私たち、将来結婚するんだもの」
その言葉に、セラフィオンは静かに目を細め頷いた。白薔薇の香りが風に揺れる。あの日の午後の光の中で、その未来だけが確かに存在していた。
「リア!」
遠くから声が飛ぶ。ローゼリアが振り返った。
「ルシエルだわ。行かなくちゃ」
ローゼリアは手を振る。セラフィオンも小さく振り返した。
疑いもしなかった。二年後も。五年後も。十年後も。この少女が、自分の隣にいる未来を。
◇◇◇
「……消えないな」
セラフィオンは呟いた。夢から醒めるように視線を落とす。そこにあるのは白薔薇の庭園ではない。積み上がった羊皮紙と、冷えた燭台の光だけだ。気づけば指先が触れていた。小指に咲く赤い薔薇へ。その薔薇を指先でなぞる。
白薔薇の庭園から、この場所まで。ずいぶん遠くへ来てしまった。
研究塔の最奥、記録室。窓はない。月も入らない。燭台の炎だけが、乾いた空気の中で揺れていた。
セラフィオンはひとり、古い文献を広げていた。王族性分散理論。禁忌干渉の残滓。触媒仮説。紙は乾いている。インクは古い。なのに、読むほど体温が奪われていく。
机の上には三つの波形。ローゼリアの基底値は微減。ルカリウスの共鳴値は増幅。そして満月暴走時の、一瞬だけ現れた完全安定の記録。
(……やはり)
王族性は崩壊していない。移動している。
王族性は本来、器を選ぶ。だが例外は存在する。保持できなくとも、一時的に受け止める血。ルカリウスは器ではない。重さを別の場所へ流す“継ぎ目”だ。継ぎ目は、いずれ壊れる。
第三の点を入れればいい。ローゼリアからルカリウスへ流れる負荷を、第三の点へ逃がす。直線ではなく、三角へ。王族。血族。観測者。──その一角に、自分の血を置く。
(……合理的だ)
王族性の安定維持。王家の保全。均衡の維持。──言い聞かせる必要がある時点で、もう遅いのに。
もし成功すれば。ローゼリアの減少は止まる。そして自分の血にも、ローゼリアの王族性が混じる。その可能性に、胸が一瞬だけ熱を帯びた。
「……愚かだ」
吐き捨てる。これは救済だ。奪取ではない。──そう定義しなければ、手が震える。
問題は同意ではない。気づかれないほど静かに、負荷だけを逃がせばいい。守れるなら、それは干渉ではなく補助だ。──二人は気づかない。気づかないまま、軽くなるだけだ。
その発想が浮かんだ瞬間、観測者と当事者を隔てていた境界線が、紙一枚ぶんだけ薄くなった。
(彼女がこれ以上減少するよりは、ましだ)
燭台の炎は細く、影だけが大きく揺れている。セラフィオンは机上の銀のナイフを手に取った。ほんの数滴でいい。
(これは救済だ)
刃が指先に触れた瞬間、脳裏に浮かんだのは庭園で笑うローゼリアだった。その背に回るルカリウスの腕。甘い距離。穏やかな光。
胸が、痛む。理性の痛みではない。
(……違う)
救うためか。近づくためか。切り分けようとした途端に、全部が濁る。その濁りが、思いのほか心地よかった。
刃が、ほんのわずかに皮膚を裂いた。赤が滲む。その瞬間、盤が強く反応した。ローゼリアの波形と、ルカリウスの残滓が同時に揺れる。
拒絶ではない。応答だ。まだ式を組んでいない。それなのに、血が応えた。拒むどころか──待っていたみたいに。
指先から落ちた一滴が、盤の中央に触れる。瞬間。三点を結ぶ線が、ほんの一瞬だけ完全な円を描いた。すぐに消える。それでも、円は閉じた。
静寂が落ちる。ジュニパーの冷えた香りが、わずかに乱れる。セラフィオンは指先の血を拭った。その仕草だけが、異様に静かだった。
「……遅すぎた」
もう、遅い。式はこの血を知った。観測者としてではなく、媒介として。
三点構造は“可能”から“潜在”へ移行した。まだ発動していない。だが次にトリガーが触れた瞬間、完成する。
理論上の反応か。それとも──
その問いに答えないまま、セラフィオンは文献を閉じた。閉じることで、問いを封じた。
観測者から、当事者へ。救済者から──何かへ。その名前を口にした瞬間、きっと戻れなくなる。だから、まだ呼ばない。




