第24話 甘い均衡
満月から十日。城は平穏を取り戻したかのように静かだった。
庭園の奥、白薔薇のアーチの下。やわらかな光が石畳を照らし、白い石壁に蔓の影が落ちている。アーチの内側だけは、ほんのわずか空気が柔らかかった。
薄紅のドレスが、白薔薇の間で静かに揺れる。ローゼリアは石造りのベンチに腰掛け、ルカリウスを見上げた。
「ルカ、調子はどう?」
「問題ない」
以前より柔らかい声色。左目の赤は、今は沈んでいる。満月の夜の暴走が嘘のようだ。
「お前は?」
問い返され、ローゼリアは少しだけ笑う。
「軽いの」
「……軽い?」
「身体が。悪い意味じゃなくて」
前より呼吸が楽だ。血の波が、以前より静かに流れている。それが何を意味するのかを、ローゼリアはまだ知らない。
ルカリウスがゆっくりとローゼリアの顎に触れた。
「匂いが変わった」
ルカリウスの声に、ローゼリアは目を瞬く。
「甘い」
欲望ではなく、観察でもない。“知っている匂い”を確かめる声だった。ローゼリアは小さく息を吐き、囁く。
「……欲しい?」
ルカリウスの瞳が、わずかに揺れる。
「いいのか」
「私がルカに与えたいの」
その一言で、空気が静かに変わった。
ルカリウスはゆっくりと首筋に口づける。唇の熱と呼吸が重なる。そのまま、隠しきれなかった牙の先が、ほんの浅く皮膚を裂いた。痛みはない。熱が、流れ込む。
ベチバーの冷たさが、ゆっくり熱に溶ける。ダマスクローズの甘さだけが、静かに残った。暴走は起きない。月はない。光も歪まない。ただ、血が静かに溶ける。
ルカリウスがゆっくりと離れた。
血はわずか。左目の奥で赤が一瞬だけ灯り、すぐに消える。暴走しない。侵食しない。代わりに──安定する。ローゼリアの呼吸が、深くなる。
「……温かい」
それだけを言う。何かが移ろっていることも、何かが別の場所へ流れていることも、ローゼリアはまだ知らない。
ルカリウスの唇が、もう一度首筋へ寄る。わずかに止まる。ローゼリアは小さく笑った。
「ふふ。少しだけね」
血は、もう一度静かに混じり合った。
契約は終わっていない。儀式だけが、拒まれた。
血の中で、式はもう始まっている。
◇◇◇
庭園の噴水脇。ローゼリアとルカリウスが去ったあと、しばらく静寂が残った。
やわらかな光が石畳に薄く伸びている。白薔薇のアーチから、かすかに甘い残り香が漂っていた。
エリオは、ひょこっと植え込みの影から顔を出した。
「いや甘っ」
ぽつりと呟く。懐中時計をくるりと回しながらも、瞳は観測している。ローゼリアの波形は前より軽くなり、裂けてはいないが削れている。
ルカリウスの左目。一瞬赤が出たが、暴走はしない。吸っているけれど、奪ってはいない。
「うわぁ……」
エリオは小さく笑う。
「ちゃんと繋がってる」
あの満月の夜、世界は壊れかけた。今は違う。静かすぎる。
エリオはベンチに腰を下ろし、空を見上げた。ベルガモットの香りが、自分の周囲だけに漂う。甘い庭園の空気の中で、そこだけが少し醒めていた。
「ねぇリア」
誰もいないのに、話しかける。
「君、わかってる?」
(──わかってないよね)
王族の血だから甘いのだと、勘違いしたまま。
(その甘さの分だけ、未来は削れてるのに)
カチ。秒針が鳴る。エリオの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
──あの赤い雪の夜。全部、見ている。全部、覚えている。だからこそ、今の甘さが尊い。
「……でもさぁ」
「削り合う恋愛は、趣味じゃないんだけどな」
ふっと笑う。立ち上がる。軽やかに。
「まあいっか。今はまだ、生きてるし」
まるで未来を知っているみたいに言う。ふと、懐中時計が微かに震えた。エリオが止まる。
「……え?」
ほんの一瞬。秒針が、通常より遅れた。一拍。それだけ、でも──
「これ、僕のせいじゃない」
時間が揺れた。干渉していないのに。エリオの金の瞳が、静かに細くなる。
「……あーあ」
楽しそうに、でも少しだけ真面目に。
「これ、ちゃんと育つやつだ」
(──式は、もう“自律”している)
遠くで、ローゼリアの笑い声が響く。ルカリウスが低く何か言っている。幸せで、甘くて、静かな声だ。でもエリオは知っている。秒針は、嘘をつかない。静かに削れていくものまで、ちゃんと刻む。
エリオは、軽く笑った。
「まあ、壊れるなら綺麗に壊れよ? 中途半端が一番ださいから」
くるりと時計を閉じる。
今日は止めない。──もう、誰にも止められないから。




