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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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24/66

第24話 甘い均衡

満月から十日。城は平穏を取り戻したかのように静かだった。


庭園の奥、白薔薇のアーチの下。やわらかな光が石畳を照らし、白い石壁に蔓の影が落ちている。アーチの内側だけは、ほんのわずか空気が柔らかかった。


薄紅のドレスが、白薔薇の間で静かに揺れる。ローゼリアは石造りのベンチに腰掛け、ルカリウスを見上げた。


「ルカ、調子はどう?」


「問題ない」


以前より柔らかい声色。左目の赤は、今は沈んでいる。満月の夜の暴走が嘘のようだ。


「お前は?」


問い返され、ローゼリアは少しだけ笑う。


「軽いの」


「……軽い?」


「身体が。悪い意味じゃなくて」


前より呼吸が楽だ。血の波が、以前より静かに流れている。それが何を意味するのかを、ローゼリアはまだ知らない。


ルカリウスがゆっくりとローゼリアの顎に触れた。


「匂いが変わった」


ルカリウスの声に、ローゼリアは目を瞬く。


「甘い」


欲望ではなく、観察でもない。“知っている匂い”を確かめる声だった。ローゼリアは小さく息を吐き、囁く。


「……欲しい?」


ルカリウスの瞳が、わずかに揺れる。


「いいのか」


「私がルカに与えたいの」


その一言で、空気が静かに変わった。


ルカリウスはゆっくりと首筋に口づける。唇の熱と呼吸が重なる。そのまま、隠しきれなかった牙の先が、ほんの浅く皮膚を裂いた。痛みはない。熱が、流れ込む。


ベチバーの冷たさが、ゆっくり熱に溶ける。ダマスクローズの甘さだけが、静かに残った。暴走は起きない。月はない。光も歪まない。ただ、血が静かに溶ける。


ルカリウスがゆっくりと離れた。


血はわずか。左目の奥で赤が一瞬だけ灯り、すぐに消える。暴走しない。侵食しない。代わりに──安定する。ローゼリアの呼吸が、深くなる。


「……温かい」


それだけを言う。何かが移ろっていることも、何かが別の場所へ流れていることも、ローゼリアはまだ知らない。


ルカリウスの唇が、もう一度首筋へ寄る。わずかに止まる。ローゼリアは小さく笑った。


「ふふ。少しだけね」


血は、もう一度静かに混じり合った。


契約は終わっていない。儀式だけが、拒まれた。


血の中で、式はもう始まっている。



◇◇◇



庭園の噴水脇。ローゼリアとルカリウスが去ったあと、しばらく静寂が残った。


やわらかな光が石畳に薄く伸びている。白薔薇のアーチから、かすかに甘い残り香が漂っていた。


エリオは、ひょこっと植え込みの影から顔を出した。


「いや甘っ」


ぽつりと呟く。懐中時計をくるりと回しながらも、瞳は観測している。ローゼリアの波形は前より軽くなり、裂けてはいないが削れている。


ルカリウスの左目。一瞬赤が出たが、暴走はしない。吸っているけれど、奪ってはいない。


「うわぁ……」


エリオは小さく笑う。


「ちゃんと繋がってる」


あの満月の夜、世界は壊れかけた。今は違う。静かすぎる。


エリオはベンチに腰を下ろし、空を見上げた。ベルガモットの香りが、自分の周囲だけに漂う。甘い庭園の空気の中で、そこだけが少し醒めていた。


「ねぇリア」


誰もいないのに、話しかける。


「君、わかってる?」


(──わかってないよね)


王族の血だから甘いのだと、勘違いしたまま。


(その甘さの分だけ、未来は削れてるのに)


カチ。秒針が鳴る。エリオの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。


──あの赤い雪の夜。全部、見ている。全部、覚えている。だからこそ、今の甘さが尊い。


「……でもさぁ」


「削り合う恋愛は、趣味じゃないんだけどな」


ふっと笑う。立ち上がる。軽やかに。


「まあいっか。今はまだ、生きてるし」


まるで未来を知っているみたいに言う。ふと、懐中時計が微かに震えた。エリオが止まる。


「……え?」


ほんの一瞬。秒針が、通常より遅れた。一拍。それだけ、でも──


「これ、僕のせいじゃない」


時間が揺れた。干渉していないのに。エリオの金の瞳が、静かに細くなる。


「……あーあ」


楽しそうに、でも少しだけ真面目に。


「これ、ちゃんと育つやつだ」


(──式は、もう“自律”している)


遠くで、ローゼリアの笑い声が響く。ルカリウスが低く何か言っている。幸せで、甘くて、静かな声だ。でもエリオは知っている。秒針は、嘘をつかない。静かに削れていくものまで、ちゃんと刻む。


エリオは、軽く笑った。


「まあ、壊れるなら綺麗に壊れよ? 中途半端が一番ださいから」


くるりと時計を閉じる。


今日は止めない。──もう、誰にも止められないから。

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