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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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20/22

第20話 燃え残る赤

満月の白い光が、石床を冷たく照らしていた。


鼻の奥に残る血の匂いが、ルカリウスの奥底に沈んでいた記憶を引きずり上げる。



◇◇◇



月の光が、燻んだ壁の色を誤魔化す。そんな、いつもより少し寂しい色をした夜だった。


母は月明かりの下で、グラスを傾けながら、血を静かに摂取していた。まるで、誰かに見てほしいようにも見えた。


けれど、あれは違う。柘榴と葡萄の整った匂いではなかった。高位貴族の間で流行る嗜好品でも、美容のための人工血でもない。あんなものが、母に手に入るはずがなかった。


──では、あれは何だったのか。


母の血の匂いは甘かった。そして、少し重い。生きているものの匂いだった。


「あなたのせいじゃないわ」


口癖のようにそう言っていた。優しすぎる声だった。そのあとに残ったのは、空洞だけだ。


正妻にはなれない身分だった。それでも母は、いつも笑っていた。守りたかった。なのに、あの死はあまりにも突然だった。


吸血族でも、死ぬ。


ただ、母が血を飲む姿は見たことがあるのに。


──母の牙を見たことはなかった。


本当に、吸血族だったのだろうか。その疑問だけは、胸の底に沈めてきた。



◇◇◇



王宮の裏庭。父の訓練を待つのに、ちょうどよい場所だった。


膝に本を広げていた。ページはめくられていない。ただ、月を見ていた。


そこへ、澄んだ気配が来たから顔を上げた。


雫に濡れた翡翠の瞳。月夜に光るルビーのような髪。石壁の影から、宝石のような少女が現れた。泣いてはいなかった。けれど、泣く寸前の匂いがした。


夢の中のもののようだった。こんな場所に、こんな色が存在するとは思っていなかった。声をかけるつもりはなかった。ただ──


「……母が、死んだ」


気づけば、言っていた。夢なら、言えると思った。


少女は、息を止めた。


「わたしも……」


声が、揺れる。瞳が、揺れる。


「わたしのせい……なの」


それ以上、少女は何も言わなかった。なのに、深い部分に刺さった。きっと母は、自分のせいで死んだ。ずっとそう思っていたから。


誰にも言えなかった。だからこそ、その言葉の意味が胸に落ちた。


自分と同じ匂いがした。湿った土と冷えた空気に混ざった、あの日の匂い。失った者だけが持つ、あの匂い。


少女の横に、黙って座った。何も言わなかった。ただ、隣にいた。


それで十分だった。


──けれど今夜、月の下で揺れているのは、あの夜の静けさではない。


もっと、危ういものだ。



◇◇◇



満月は、まだ空にある。刃のように冴えた光が観測室を満たし、中断された契約の残滓を容赦なく照らしていた。空気は、凍った水面のように張り詰めている。


ローゼリアはルカリウスの腕の中で、浅く息をしていた。倒れてはいないが、血の波形はまだ揺れている。


ルカリウスは動かない。動けない、に近かった。左目に残る赤は沈みきらず、呼吸のたびに喉の奥で獣が低く鳴る。かろうじて立っていられるのは、噛み切らなかったことと、ローゼリアの声がまだ耳の奥に残っているからだ。


右は深い紫。左は燃え残る赤。消えきらない炎だった。


「……その目」


エリオの声が、沈黙に小石を落とす。ルカリウスが睨む。


「なんだ」


低く唸るような声色が、喉の奥でまだ獣が息をしているようだった。


「満月でも、そこまで残るのは珍しいよ」


軽い口調だが、目は笑っていない。


セラフィオンが、ゆっくりと視線を上げた。理性の仮面は整っている。けれど内側で、何かが軋んでいる。


「王族性の共鳴だけでは説明がつきません」


淡々と、切り分ける。


「満月でここまで残るのは、異常です。ですが──」


視線が、左目へ落ちる。


「この波形は、通常の共鳴ではありません」


空気が凍る。赤が、さらに滲む。


「……何の話だ」


震えを含んだ声だった。


「吸血族の血は、ここまで偏って染まりません」


セラフィオンの視線が、赤い左目へ落ちる。


「片側だけが、これほど月に引かれるのは異常です」


ルカリウスの声が、わずかに低くなる。指先が、微細に震える。


「……俺が吸血族じゃないって言いたいのか」


エリオが柔らかく笑う。


「いやいや、吸血族なのは否定してないよ」


セラフィオンが続けた。


「まだ分かりません。ただ、あなたの血には説明のつかない部分がある」


眉がわずかに寄る。次の瞬間、片目の赤が跳ね上がり完全な紅へ傾きかける。


ローゼリアが、掠れた声で呼ぶ。


「……ルカ」


その音だけで、赤がわずかに退く。けれど消えない。火種のように、奥で燻る。


「珍しい血ほど、王族性に深く刺さる」


エリオの言葉が、ローゼリアの喉元に残る熱を思い出させる。その言葉にルカリウスの指先が、わずかに動いた。


「今夜、起きかけたのは拒絶だけではありませんでした」


セラフィオンの声は低いまま、わずかに重くなる。


「王族性は反発しながら、同時に別の形で応答していた。あのまま噛み切っていれば、契約に近い現象が起きていたかもしれない」


息を呑む音。噛まなかったはずの喉が、脈打つ。


「ただし──代償は予測不能だったでしょう」


月光が影を作り、四人を切り分ける。ルカリウスはローゼリアを見下ろす。赤い瞳の奥に、初めて浮かぶもの。怒りではない。怯えだ。


「……俺が、壊すのか」


それは獣ではなく、今にも消えそうな、ひどく脆い声だった。


ローゼリアは首を振る。


「違う」


指先が、頬に触れる。命令ではない。選択だ。


「あなたは、私を壊さない」


赤が、ゆっくりと紫へ沈む。完全には戻らない。けれど揺らぐ。


王族性は拒絶していない。むしろ──引き寄せている。磁石のように。


満月は、まだ空にある。契約は未完。それでも──血は、もう選んでいる。



◇◇◇



研究塔の観測室を出たあとも、月は高く、冷たく、頂点を過ぎたばかりで満ちている。ルカリウスは、螺旋階段の踊り場にひとり立っていた。


拳を強く握る。あの瞬間の衝動が、まだ残っている。


噛みつく寸前だった。理性が切れたのは一瞬だ。それでも確実に、何かが外れかけた。


(……なんだ、これは)


自分の血が、自分の意思と別に動いた。ローゼリアの血に触れた瞬間、視界が赤に染まった。あの甘い匂い。鼻の奥に、わずかな熱。理性を焼く匂い。


「……くそ」


壁に拳を打ちつける。乾いた音が、夜に溶ける。


守ろうとしたのか。それとも、奪おうとしたのか。どちらでもない。ただ、ローゼリアに噛みつきかけた事実だけは、消えない。


あのまま理性が切れていたら。ローゼリアは拒まなかったかもしれない。それが、余計に怖い。


鏡のない回廊。それでも感覚でわかる。紫の奥で、赤がまだ滲んでいる。


自分が普通の吸血族ではないのかもしれない。そう考えたことなど、一度もなかった。


だが今夜だけは違う。自分の血が、自分の知らない何かへ変わり始めている気がした。


満月は過ぎた。それでも血は、まだ覚えている。


──噛みたかった。

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