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薔薇は満月に咲かない  作者: Rii
第1幕

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19/22

第19話 時間の外側

盤の光が砕ける。映像は消えた。だが、セラフィオンだけはまだ現実へ戻れない。自分だけに映し出されたその光景が、瞼の裏に焼き付いていた。


「──っ」


次の瞬間、現実が牙を剥く。


ルカリウスの赤い左目が、完全に燃える。紫と赤が、ひとつの瞳の中で拮抗する。完全なオッドアイ。その紫の奥に、かすかに“金”が混じっていた。見間違いかもしれないほど淡く、それでも確かにそこにある色。王族以外の瞳に、本来存在しない色。


「足りない……」


低い獣のような声に空気が歪む。共鳴が制御を失う。


水面に浮かんだ薔薇の紋が、さらに棘を増やして広がる。棘の根元だけは崩れていない。むしろ深く沈み込む。


ルカリウスの牙が、ローゼリアの首筋に再び近づく。


その瞬間。セラフィオンが前へ出た。考えるより先に、身体が動いていた。ローゼリアの手首を強く掴む。


「リア、いけません!」


セラフィオンの声が割れる。理性が崩れた、初めての怒声。


ルカリウスが赤い目で睨む。奪われることへの、排除本能のように。


「触るな」


ルカリウスの声に、空気が凍る。セラフィオンの胸に、あの夜が重なる。倒れたルカリウス。血で染まった雪、冷たい月。


(私は、また──)


セラフィオンに手首を掴まれたままのローゼリアを、ルカリウスは引き寄せるように強く抱きしめる。次の瞬間、牙をローゼリアの首へ突き立てた。


エリオの懐中時計が強く震えた。秒針が跳ねる。命が削れる音がする。


「……やばい」


軽い声ではない。覚悟の声だ。均衡が、端から崩れる。水面に浮かぶ薔薇の紋が黒く変色しはじめる。


「これ、崩れる」


セラフィオンの瞳には理性と罪悪と欲が混ざり、固まっている。


「ごめん、リア」


エリオが懐中時計を開く。指先を噛み、秒針に血を吸わせる。


カチ。


世界が止まった。



◇◇◇



水面は宙に固定され、砕けかけた月光は空中で止まり、ローゼリアの血の雫は落ちる直前で静止する。風も、音も、鼓動もない。世界が、凍りついた。


止まっていないのは──エリオだけ。


「……はぁ」


浅く息を吐く。懐中時計の秒針が、かすかに赤く滲んだ。代償が、確定する。眠れない夜が増える。命が、また削れる。それでも、止めた。


視線を上げる。ルカリウスが、ローゼリアの首に牙を刺し、完全なオッドアイのままローゼリアを抱いている。赤と紫が、凍った光の中で燃えていた。


「……止まってるよね?」


確認のための独り言。止まっている。なのに──赤い瞳の奥が、ほんのわずかに揺れた。


「え、?」


背筋が冷える。止めたのは世界で、止まっていないのは“血”だ。血の共鳴だけが、時間の外側に触れている。戻しても、血だけは嘘をつかない。


視線をセラフィオンへ移す。ローゼリアの手首を掴んだまま。盤の光が、止まったまま震えていた。その瞳の奥には、罪と後悔と欲が混ざっている。


「……最悪の組み合わせ」


エリオはゆっくりと歩み寄り、まずルカリウスの顎を指先で軽く押し上げる。動かない。けれど、赤い瞳が微細に揺れた。


「君、止まらないんだ」


満月と血と契約と。その中で、本能だけが時間の外側に触れている。


「リアを守るためなら、世界だって噛み砕きそうなのに……それでも駄目か」


苦笑は軽いのに、目は冷たい。


次にセラフィオンの前に立ち、凍ったままの顔を覗き込む。


「……思い出した?」


優しく、残酷に呟く。盤に映し出された回帰前の映像──ルカリウスを殺した瞬間。


それは合理だった。王家のための正しい選択だった。けれど今、目の前の男はローゼリアを守るために理性を捨てかけている。


エリオはゆっくりとローゼリアを見る。銀盆の水面に浮かんだ薔薇の紋が、黒く染まりかけていた。これ以上は、崩れる。


どこまで戻す?数秒か。それとも、契約前までか。秒針が震える。寿命が削られる。


「……はぁ」


「僕、ほんと損な役回りだなぁ」


軽く笑う。そして、ローゼリアの首元に指を添える。血の流れ。共鳴の中心。


「……ここだ」


エリオの指先が、ローゼリアの首元へ触れる。秒針を、逆回転させる。


カチ、カチ、と乾いた音が夜へ落ちた。世界が軋む。砕けかけた水面が戻り、跳ねた血が銀盆へ吸い込まれていく。崩壊しかけた薔薇の紋が、巻き戻るように淡く消えていく。


時間が戻る。ほんの数秒ではない。──契約が、暴走を始める直前まで。


「戻るよ」


次の瞬間、世界が動く。



◇◇◇



音が戻る。水が落ちる。光が弾ける。


ルカリウスの牙は、まだ触れる寸前で止まっていた。セラフィオンの手は、ローゼリアから離れている。水面に浮かんだ薔薇の紋は、完全に黒くなる前で止まる。共鳴は、暴走直前で固定された。


「……っ」


ルカリウスが低く唸る。赤が揺れる。噛みたい、それでも、噛まない。噛めばローゼリアの均衡が終わる。本能が、それを知っている。


セラフィオンが息を吸う。記憶は消えない。盤の像は、脳裏に焼きついたまま。


「私が、彼を……」


小さく呟く。言葉が落ちる音だけが、やけに重い。


ローゼリアはまだ崩れきっていない。ぎりぎり、間に合った。エリオの足元がふらつく。眠れなくなる。寿命が削れている。けれど笑う。


「っ、はあ……、セーフ」


エリオの呼吸が乱れる。額には汗。笑みの裏で、秒針が血を吸っている。懐中時計の秒針が、赤く滲む。数秒戻しただけじゃない。“崩壊しかけた未来そのもの”を押し戻した代償が、身体を軋ませていた。


「……誰が、止めた」


ルカリウスが低く言う。オッドアイが、まだ燃えている。止められた感触だけが、喉の奥に刺さっている。


空気が重い。セラフィオンがゆっくりと前へ出る。理性は戻っている。だが奥は壊れたまま。


「このままでは成立しません」


冷静な声だった。けれど、心臓だけが震えていた。ルカリウスが睨む。赤と紫の瞳が、獣のように細くなる。


「……ルカ」


ローゼリアが、かすれた声で名前を呼ぶ。名前を呼ばれただけで、瞳の赤が、わずかに揺らぐ。理性が戻る。完全ではない。けれど、ローゼリアの声だけが鎖になる。


満月はまだ空にある。契約は未完。暴走は、止まっただけ。沈黙が落ちる。月光だけが、変わらず四人を照らしている。


月は拒んだ。契約は失敗したのか、成功したのか。誰にも分からないまま。


──ローゼリアの右手首だけが熱を帯びていた。

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