第18話 満月の契約
研究塔の最上階の観測室。開かれた開閉式の硝子天井の向こうで、満ちた月が──“目”を開いている。
白く冴えた光が石床を撫でる。水を張った銀盆が、静かに式の口を開いていた。月光と、水と、契約者の血。本来なら、それで十分なはずだった。
ローゼリア、ルカリウス、セラフィオン、エリオ。ここにいるのは四人だけだ。
ルカリウスの視線が、ふとセラフィオンの右手へ落ちた。小指に刻まれた赤い薔薇。自分と同じ色をした印が、別の男の指にも咲いている。ルカリウスは何も言わなかった。ただ、ローゼリアの小指に咲く紫と青の薔薇を見て、奥歯を噛みしめる。
セラフィオンも、その視線には気づいていた。だが隠さない。隠したところで、起きた事実は消えない。観測者である自分が目を逸らす理由もなかった。空気が静まりすぎている。呼吸さえ音になる。誰かの鼓動ひとつでさえ、月に嗅ぎ取られそうだった。
「始めます」
セラフィオンの呼吸が整う。星詠みの盤が月光を受け、薄い線を空間へ刻むように描いた。冷えた石と月光が、式の輪郭を硬く縁取る。
ローゼリアは迷わず短剣を取り、指先を浅く裂いた。赤が、月光に濡れた。血が水面へ落ちた瞬間、淡い光がふわりと広がる。水面が皮膚みたいに震え、式が目を覚ます。生き物のように。
「ルカ」
呼ばれる前から、ルカリウスは一歩前へ出ていた。同じように指先を切り、血を落とす。赤が混じり合い、月光がひと呼吸ぶん強くなる。
ローゼリアの右手首が熱を帯びた。血印はここになくても王族の血が流れた瞬間、見えない印は皮膚の下で目を覚ます。右手首に、ほんの一瞬だけ薔薇の形の痣が浮かんだ。
セラフィオンだけがその一瞬の変化に気づき瞳が鋭くなる。
(やはり……波形が乱れている)
王族性が、安定しない。ローゼリアは歯を食いしばった。痛みは皮膚ではなくもっと内側の血の奥、骨髄の奥で“古いもの”が軋む。
「……契約を」
契約の言葉が半ばに差しかかった瞬間──水面が弾けた。光が反転する。押し返す力。
銀盆の水が内側からせり上がり、赤い波紋が天へ跳ね上がる。月光が歪み、星詠みの盤が軋んだ。“式”が、自らを拒絶している。
「固定が……」
セラフィオンの瞳が揺れる。
「単なる拒絶じゃない……契約そのものが、暴走している」
次の瞬間。水面が裂けるように跳ね、光が裏返る。赤い波紋が逆流し、空間そのものが震えた。塔が、月に噛まれたみたいに軋む。
「……っ」
ローゼリアの身体が揺れる。
「リア!」
ルカリウスが抱き止める。その瞬間、熱が走った。抱擁の温度が、式に火を入れる。拒絶の波が今度はルカリウスへ跳ね返り、混ざりきらなかった血が本能の鍵穴をこじ開けた。
月が、強すぎる。月光がルカリウスの横顔を切り取った。
紫の瞳の奥で──左目が、はっきりと赤く色付いた。完全なオッドアイ。理性の境界に、裂け目が走ったまま。
「……ルカ?」
ローゼリアの声が掠れる。拒絶で乱れた血の匂いと裂いた指先の熱。月が、真上で白く凝っている。ダマスクローズが濃くなる。ルカリウスの呼吸が乱れた。赤い瞳が、わずかに揺れる。
「下がってください」
セラフィオンの声が鋭くなる。星詠みの盤が異常な波形を描く。
「共鳴が不完全です。今は危険──」
言葉が終わる前に、ルカリウスがローゼリアの顎を掬った。逃げ道だけを奪う指先に鼓動が跳ねる。赤い瞳がローゼリアを見下ろした。
「……リア」
声が低く沈む。指先が、ローゼリアの首筋をかすめる。触れる寸前で、止まった。
「……欲しい」
セラフィオンの指が、わずかに動く。介入の計算。触れてはならない距離を、身体が先に測っている。足が、半歩動きかけた。エリオの懐中時計が、微かに震えた。
空気が張り詰めた次の瞬間、ローゼリアはルカリウスの胸元を掴んだ。セラフィオンの足が、止まる。月光の下で、翡翠の瞳が赤い左目をまっすぐ見上げる。そして、囁いた。
「……噛んで」
──許可は、刃より速い。
赤い瞳が揺れる。理性が最後に抵抗する。
「……だめだ」
ルカリウスの掠れた声。牙が覗いたまま、わずかに引こうとする。その牙が、微かに震えていた。噛めば壊してしまうと、本能の方が理解している。
ローゼリアの両手が、ルカリウスの頬を挟んだ。睫毛が月光を弾き、翡翠の瞳が“選んだ目”をしていた。
「……ちゃんと、こっち見て」
澄んだ囁きに、ルカリウスの呼吸が乱れる。ローゼリアは逃げない。
「噛んでって、言った」
血を差し出す、覚悟の瞳。選ぶ側の女の静かな確信めいた瞳に、ルカリウスの理性が最後に揺らぎ、静かに折れた。
ゆっくりと首筋へ顔を埋める。唇がそっと脈に触れる。
そして──牙が、浅く沈んだ。
熱が走る。血が流れ込む。ルカリウスの喉が、深く鳴った。飢えの音でもあり、恐れの音でもある。
「……っ」
──吸う。奪うのではなく受け取っていく。
銀盆の水面が、一度だけ静止した。まるで“式が刻まれた”かのように。次の瞬間、水面が内側から弾けた。
ローゼリアの背が弓なりに反る。熱が脊髄を走り、呼吸が短くなる。だがその両手は、最後までルカリウスの頬に触れたままだった。
ルカリウスが、牙を抜きゆっくりと顔を上げた。唇には血が滲む。ローゼリアの首筋には、浅い傷。左目の赤が、まだ消えていない。血の共鳴が、終わっていなかった。
赤い光が首筋から手首へ走る。水面に咲いた薔薇は、本来の紋様ではなかった。棘だけが異様に長い。その中心に、影のような紋がもう一つ重なっていた。
「……共鳴過多」
セラフィオンの声が低く落ちる。星詠みの盤が暴走する。光が弾け、式が悲鳴を上げた。その中央に、一瞬だけ完全な円環が浮かぶ。──成立した。そう見えた次の瞬間、砕け散る。
だが“何か”は残った。
その瞬間、世界が薄くなる。盤が、セラフィオンの脳内へ直接映像を流し込んだ。
◇◇◇
──回帰前の月光が、いまの月光に重なった。
赤い雪。倒れているのは──胸を貫かれたルカリウス。冷たい月が地に塗れたその姿を照らしていた。
そして、毒矢を握るセラフィオン。星詠みの盤が、青白く脈打っていた。逃げ道を読むみたいに。生き残る未来だけを、切り捨てるみたいに。
「……な」
息が、止まる。今は、まだ生きている。なのに、あの夜。
(──私が、彼を殺した)




