第21話 血が覚えているもの
ローゼリアを医務室へ運び込んだのは、ルカリウスだった。眠る横顔を確認しても、不安は消えない。首筋に残る浅い傷へ視線が落ちる。自分が刻んだ傷だ。
指先が伸びかけて、止まる。触れる資格がない気がした。
「……」
エリオが付き添うと言った時、少しだけ安堵した自分がいた。そのまま医務室を出る。
そして──螺旋階段の踊り場で、ルカリウスはひとり立っていた。吹き抜けへ落ちた足音は、鈍く反響して消えていく。石壁に滲む月光だけが、静かに階段を照らしていた。
ルカリウスは無言で月を背にしていた。左目には、まだ完全に沈みきらない赤が残っている。消し忘れた火種のように。
「体調は?」
背後から声が落ちる。振り返らなくても分かった。ルカリウスは振り返らないまま、答えた。
「問題ない」
セラフィオンは一定の距離で止まる。研究者が異常を観測するときの、冷たく正確な間合い。ジュニパーベリーの冷えた香りが、月光の中で際立つ。
「問題がない者は、満月の残滓を瞳に残しません」
ルカリウスはゆっくり振り返る。右は深い紫。しかし左だけが、深層で赤を抱えている。月の反射ではない。内部から滲んでいる。
「……何が言いたい」
警戒でも苛立ちでもない。“自分でも説明できない何か”への不快感。刃を握っているのに、刃がどこを向くか分からないときの、あの鈍いざらつき。
セラフィオンは答えないまま、一歩だけ近づいた。月光が二人のあいだに落ちる。白い線が床を切り分け、近づくほど、影が濃くなる。
「あなたは、自分の血をどこまで知っていますか」
空気が変わる。ルカリウスの視線が鋭くなる。獣ではなく騎士の目だ。
「王族じゃない。それで十分だろ」
その言い方にはわずかな硬さがあった。血ではなく剣でここまで上がってきた男の、切り捨てるような自負。
「ええ。少なくとも、王族の波形ではありません」
セラフィオンの声は淡々としている。淡々としたまま、刃を研ぐ。
「ですが──通常の吸血族の反応とも一致しない」
月光が冷たい。赤が、息をしている。ルカリウスの眉が寄る。
「……何の話だ」
セラフィオンは懐から星詠みの盤を取り出す。その掌に収まる円盤に月光を受けた紋様が淡く光り、空間そのものに波形を刻むように鳴る。
──そして、ルカリウスに向けた瞬間。強く光が共鳴した。
耳で聞く音ではないのに、骨が小さく震えるような反応。ルカリウスの左目の赤が、わずかに濃くなり呼吸が乱れる。
「……何をした」
「何も。反応しているのは、あなたの血です」
月光の下で盤の紋様が脈打つ。
「不完全な共鳴」
青の瞳が観測者の視線で、紫と赤を宿す瞳を覗き込んだ。
「王族性は、通常なら強く拒絶するか、完全に固定へ傾きます。ですが、あなたの血はそのどちらでもない」
ルカリウスの喉が動く。反射的に、呼吸が一拍遅れる。
「俺は……何だ」
問いではなく、事実の確認だ。セラフィオンは息を飲み込んだ。
「まだ仮説です。ですが、あなたの血統のどこかに、王族性と噛み合う要素がある」
断定ではない。だが否定を許さない種類の静けさがある。
「その瞳の赤も──偶然では説明できない」
ルカリウスは無言で拳を握る。月の下での衝動、ローゼリアに触れたときの暴走未満の反応が全部繋がる。けれど答えにはならない。
「……余計なことを、リアには言うな」
低く、鋭い声。セラフィオンの視線がわずかに揺れた。
月は静かに、二人を照らしていた。この血の歪みが、次の満月で何を引き起こすのか。
今は何も考えたくなかった。
◇◇◇
ひとりになりたかったはずなのに、足は医務室へ戻っていた。
白い空間で目を閉じるローゼリアの横顔は、あまりにも穏やかだった。薄い月光が硝子を越えて差し込み、その頬を陶器のように冷たく照らす。まるで、血も痛みも今夜の失敗も──最初から存在しなかったみたいに。
眠っているだけだと、思いたい。なのに部屋には、甘い薔薇の奥に沈む黒い果実のような血の匂いがまだ残っていて消えない。
壁にもたれたまま、ルカリウスは動かない。動けば、何かが崩れると知っているように、呼吸さえ浅い。鎧の内側で、獣がまだ眠らず爪を立てる場所を探している。
(……あの瞬間)
噛みつこうとした──欲。でも、それだけではない。胸の奥で何かが“懐かしい”と反応した。理屈の前に“初めてではない”と血が叫んだ。
遠くで、カチ、と鳴った気がした。ここに時計などない。ありえないはずの音。それでも確かに、何かが刻まれた。目に見えない秒針が、血の奥を一度だけ掠めた。
視界の端が、わずかに赤を帯びる。満月は過ぎたはずだ。なのに、左目の奥が熱を持つ。じわりと、灯る火種のように。紫の底に沈んでいたものが、ゆっくりと浮上してくる。溺れた記憶みたいに。
「……やめて……」
眠ったまま零れる小さな声。ルカリウスの心臓が、強く跳ねる。
「誰に言ってる」
ルカリウスは無意識に呟く。
(俺にか?それとも──)
胸の奥に、何かが走る。雪の冷たさと血の匂いそして突き刺すような月の光。形にならない、けれど確かに知っている感覚。喉が焼けるように熱い。奪われた夜の匂いがする。
(俺は……何を忘れている)
視界が揺れる。左目が、強く脈打つ。紫の奥で、赤が静かに広がる。侵食ではなく帰還するかのように。
自分の中にある何かが、満月のたびに輪郭を変える。それでも──その血は、覚えている。理性より先に。何かを失い、何かが戻った、あの感触を。
寝台の上で、ローゼリアの指が微かに動く。夢の中で、何かを掴もうとするように。
ルカリウスは迷わず、その手を取る。指先が触れた瞬間、ルカリウスの小指に咲く赤い薔薇が微かに熱を帯びた。ローゼリアの小指に咲く紫も、呼応するように揺れる。気のせいだと思った。
「……リア」
名を呼ぶその音に、ローゼリアの睫毛が震えた。閉じた瞼の端から、涙がひとすじ零れる。夢の中できっと泣いている。胸の奥が、締めつけられる。
「誰に、何をされた」
声が低くなる。怒りではなく、もっと根の深い違和感だ。母の事も自分の血の事も。満月のたびに輪郭を変える、自分が知らない“自分”。
左目の奥で赤が静かに灯る。満月は終わったはずなのに、血がまだ騒いでいる。まるで──思い出せ、と迫るように。思い出せそうで、思い出せない。思い出したら、何かが変わってしまう気がした。
指を強く絡める。もうローゼリアから離れないように。ルカリウスは、絡めた指先に顔を近づける。ローゼリアの肌の温度を、肺の奥にまで吸い込む。
ローゼリアの指が、もう一度だけ微かに動く。絡めた指を、ほんの少し強く返してくる──拒まない。その返しで、ルカリウスの左目の赤が、痛むほど鮮やかに灯る。
「……分かった」
息を吐く。決意の言葉にしては、あまりに柔らかい。
「俺はもう、他の血に向かない」
絡めた指を胸元へ引き寄せる。掌の熱だけが、やけに鮮明だった。血だけはもう、忘れたふりをやめていた。




