第9話 提督の朝は早すぎる
ノルトエルトの朝は早い。けれど提督の朝は、そのさらに前に来る。
まだ空が薄青い頃、官舎の扉が叩かれた。
「エレナ、起きているか」
「起きていません」
「嘘だな」
結局、私は外套を羽織って桟橋へ出た。アーベルは潮の匂いの中で、船の入れ替え表と潮位表を片手に立っている。
「何かあったのですか」
「今朝の入港を見ておけ。机上の数字が、どの順で現実になるか理解した方が早い」
そう言われれば断れない。
私は初めて、彼の朝の仕事に同行した。入港順の変更、荷役人員の振り分け、風向きの確認、艦隊補給との衝突回避。冷徹提督と呼ばれる男は、ただ厳しいのではなく、港全体の流れを頭に入れて動いていた。
「だから係船料の遅延が許せないのですね」
「金が消えれば縄が切れる。縄が切れれば船が流れる。海では一つの怠慢が連鎖する」
私はうなずいた。監査も同じだ。印章ひとつの緩みが、やがて国の金を腐らせる。
巡視の終わりに、小型船が一隻滑り込んできた。積み荷は乾燥豆と安酒。市井の暮らしを支える小さな船だ。
「こういう船の税が高くなると、真っ先に町の皿が痩せる」
私は呟く。
「君はいつも、人の食卓まで勘定に入れるな」
「そこまで見ない監査は嫌いです」
アーベルはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「嫌いではない」
短い一言なのに、不意を打たれたように胸が跳ねた。三十一にもなって何を、と思う。けれど王都で聞いていたのは、便利だ、従順であれ、そんな言葉ばかりだった。
仕事の見方を肯定されるのは、こんなにも効くのか。
巡視後、私たちは詰所で朝食をとった。硬い黒パンと温いスープ。でも、昨日より少しだけ具が増えていた。
「潮見亭の値段表が効いたようですね」
「マルタが兵にも同じ価格で出すと言った」
「いい店主です」
「顔も広い」
つまり噂も広いということだ。港ではもう、王都から来た監査官と提督が朝から一緒に歩いていると知れ渡っているだろう。
少しだけ気恥ずかしくて、私はパンをちぎった。
するとアーベルが平然と言う。
「気にするな。見せつけた方が、不正をする側には都合が悪い」
「そういう問題ですか」
「違うのか?」
違わない、とは言えなかった。




