第3話 辺境港ノルトエルトへ
ノルトエルト港は、王都の地図では小さな点でしかない。けれど実際に辿り着くと、その点は冷たい風と潮騒と、放置された仕事の匂いでできていた。
灰色の海。煤けた倉庫群。岸壁には補修待ちの係船柱が並び、税関詰所の窓はひとつ割れたままだった。
「歓迎の旗でも立てるべきだったか」
低い声に振り返る。長い外套を着た男が立っていた。アーベル・クラウス。北方艦隊提督。三十九歳。王都では“冷徹提督”と噂される人物だ。
「形式は結構です。代わりに現状を見せてください」
彼はわずかに眉を上げた。
「泣いて帰る貴族夫人ではないらしい」
「今日から通商監査官です。夫人は置いてきました」
案内された税関詰所は、机が三つ、帳簿棚が二つ、そして未処理書類が山ほど。窓際の古机には潮で波打った台帳が積まれ、壁には先月分の係船料一覧が貼られたまま、今月分は空欄だった。
「監査官は前任が三か月で辞めた」アーベルが言う。「その前は二週間だ」
「理由は?」
「数字が合わなかったからだろう」
端的で助かる。
私はさっそく一冊目の台帳を開いた。入港数に対して通行税が少ない。塩、木材、乾魚、薬草。生活物資ほど抜けが大きい。しかも欠損は毎回同じ曜日、同じ桟橋に偏っている。
「第三桟橋を使う定期船の徴収が落ちています」
「あそこは民間荷役組合に一部管理を預けている」
「預けすぎです」
私が即答すると、彼はわずかに口元を緩めた。
「着任一刻でそこまで言うか」
「帳簿は嘘をつく時、癖が出るものです」
その時、扉の外から怒鳴り声がした。四十代半ばの大柄な男が入ってくる。港湾管理人ヨハンだ。
「王都から来たお飾り監査官ってのはあんたか。忙しいんだ、面倒は増やすなよ」
「面倒ではなく確認です。第三桟橋の鍵台帳を見せて」
「そんなもん後だ」
「先です」
きっぱり言うと、部屋が静まった。ヨハンは不満げに鼻を鳴らしたが、アーベルが一歩前に出る。
「監査官の要求を優先しろ、ヨハン」
「提督まで……」
「この港を立て直したいなら、数字から逃げるな」
ヨハンは舌打ちして出ていった。
私はそこで初めて、胸の内に溜まっていたものが少しだけほどけるのを感じた。王都では、数字を口にするたび煙たがられた。だがここでは少なくとも、目の前の男は帳簿を見る価値を知っている。
夕暮れ、岸壁に出ると、北の海から湿った風が吹きつけた。
「住まいは?」
アーベルが訊く。
「まだ決まっていません」
「詰所裏の旧税務官舎を使え。屋根は直した」
「提督が?」
「大工に命じた」
言葉は相変わらず冷たい。けれど、追い出されたばかりの私にはその実務的な配慮が十分すぎるほどありがたかった。
私は海を見た。
ここでなら、やり直せるかもしれない。




