第2話 愛人が座る監査席
出発の前に、どうしても確かめたいことが一つだけあった。
翌朝、私は港湾局の監査室へ最後に立ち寄った。そこは本来、未払い関税と積荷申告の齟齬を洗う場所で、甘い香りや笑い声とは無縁のはずだった。
だが今朝の監査室には、見慣れない花瓶が置かれ、私の机には新しいレース布が掛かっていた。
そして、その椅子に座っていたのはリディアだった。
「あら、もういらっしゃらないと思っていましたわ」
彼女は私の羽根ペンを指で弄びながら微笑む。淡い桃色のドレスは監査室には場違いだが、本人は気にしていないらしい。
「その席は今日から私が使いますの。ギデオン様が、堅苦しい帳簿ばかり見ている部屋も、少し華やいだ方がいいと」
「監査室は華やぐための場所ではないわ」
「でも、怖い顔で数字ばかり並べていたら、みんな萎縮してしまうでしょう?」
彼女の後ろの書棚から、私が整理したはずの免税控えが数冊なくなっている。代わりに積み上がっているのは、まだ検印の終わっていない仮帳簿だ。
「あなた、印章の貸出票は読める?」
「失礼ね。それくらいわかります」
「では、昨日の第三埠頭臨時免税に使われた航路局の副印は、どうして貸出記録が二重になっているのか説明して」
リディアの笑みが固まった。周囲の書記たちが一斉に視線を逸らす。
「そ、それは……引き継ぎがまだ完全ではなくて」
「引き継ぎ前に印章を動かしたの?」
返事の代わりに、扉が開いた。ギデオンだ。
「エレナ、もう十分だ。未練がましい真似はやめろ」
「未練ではなく確認よ。監査室を飾り部屋にされると困るから」
彼は苛立ったように机を叩いた。
「君のやり方は古い。これからは商家とも柔らかく付き合う必要がある」
「柔らかく付き合った結果、税が消えているのなら、それは癒着よ」
一瞬だけ、部屋の空気が凍った。
私は机の引き出しを開け、予備の印泥、私物の定規、使い慣れた小型天秤を箱へ移した。最後に、椅子の背をひとつ撫でる。
「好きにすればいいわ。でも、監査印は人を選ばない。押された記録は必ず残る」
リディアが唇を噛んだ。彼女は自分が勝ったと思っているのだろう。だが、あの席は座っただけで務まる場所ではない。
私は出口へ向かい、途中でヘルミナとすれ違った。彼女は声を潜める。
「ノルトエルト行きの積荷目録、昨夜書き換えが入りました。塩と薬草の数量が減っています」
「誰の承認で?」
「航路局次官付」
つまりギデオン直属だ。
私は小さくうなずいた。
「ますます行く理由ができたわね」
王都を追われたのではない。証拠が北へ流れているから、私は北へ行くのだ。




