第1話 離縁命令と海風の辞令
離縁の文書は、私が自分で整えた羊皮紙より質が悪かった。
王都港湾局の執務室で、夫のギデオン・ブラントは机の端にそれを置き、まるで人事異動の一件でも告げるような顔をしていた。三十六歳。航路局次官。外向きの笑顔だけは上手い男だ。
「エレナ、君も理解してくれるだろう。うちの家は今後、もっと社交性のある女主人を必要としている」
「社交性で関税の欠損は埋まりません」
「そういうところだ」
彼は肩をすくめた。その背後には、新しい香水の匂いが立っている。最近になって頻繁に執務室へ出入りするようになったリディア・セルジュの香りだ。二十八歳。商務卿の姪で、ギデオンにとっては“将来のために必要な縁”らしい。
「離縁後の君の処遇は整えてある。北の辺境港ノルトエルトへ、通商監査官として転任だ」
慰謝料ではなく辞令を差し出してくるあたりが、いかにも彼らしい。
「ずいぶん手回しがいいのね」
「王都に残っても、お互い気まずいだけだろう」
違う。気まずいのではない。私が残れば困るのだ。港湾局の帳簿も、航路局の裏口契約も、誰がどの印章をいつ使ったかも、私は知っている。
結婚して六年。政略結婚だったが、私は仕事として妻を務めた。義父の客人名簿を整え、夫の外遊費を圧縮し、赤字航路の整理案を作り、夜は彼の見栄のために笑ってみせた。それでも最後に残った言葉は、役目を終えたから退いてくれ、だった。
「屋敷の書庫から私物を運び出す時間は?」
「今日中に。必要なものは執事が選別する」
「私の帳簿に触れさせないで」
初めて、ギデオンの目が少しだけ揺れた。だが次の瞬間には、いつもの穏やかな仮面に戻る。
「公私の区別はつけたまえ、エレナ」
「ええ。だからこそ、私は自分の仕事だけ持って出るわ」
私は離縁状と辞令を受け取った。指先は震えなかった。
廊下へ出たところで、古参書記のヘルミナが私を待っていた。五十五歳。港湾局の生き字引だ。
「奥様……いえ、エレナ様」
「今まで通りでいいわ」
彼女は周囲を見回してから、薄い帳面を私の鞄へ滑り込ませた。
「昨年の臨時免税許可の控えです。正本はもう、どこかへ消えました」
私は息を止める。消されたくないものが消され始めている。
「ありがとう、ヘルミナ。これで手ぶらでは行かずに済む」
その日の夕方、私は自分の衣装より先に、監査印の保護箱と帳簿用の筆記具を荷馬車へ積ませた。屋敷の門を出る時、振り返りはしなかった。
北へ向かう街道には、潮を含んだ風が吹いていた。
冷たいのに、不思議と息がしやすかった。




