第20話 提督はもう離さない
新しい肩書きをもらって最初の朝も、ノルトエルトの風は冷たかった。
けれど詰所の机には、前より整った台帳がある。倉庫鍵の管理表は更新され、係船料箱には封印札が貼られ、潮見亭の値段表も無理のない数字に落ち着いた。
仕事はまだ山ほどある。だが、その山はもう崩すためではなく積み上げるためのものだ。
昼前、王都への定期報告を終えた私は岸壁へ出た。アーベルが艦隊の出港確認をしている。黒い軍服の背中に、北の光が薄く落ちていた。
「提督」
呼ぶと、彼は振り返る。
「どうした」
「一つ、確認したいことが」
「聞こう」
私は少し迷ってから笑った。
「これからも、朝の巡視に付き合う必要がありますか」
彼は無言で数秒見つめ、それから珍しくはっきりと口元を緩めた。
「必要だ」
「公務ですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
海風が吹く。遠くで鐘が鳴る。
アーベルは一歩だけ近づいた。
「君を手放したくない」
その言葉は、波より静かで、けれど何より強かった。
私は息をのみ、それからようやく答える。
「港の話ですか。私の話ですか」
「両方だ」
まったく、この人は肝心な時だけ率直すぎる。
でも嫌ではない。むしろ、ずっと待っていた言葉の形に近かった。
「では条件があります」
「何だ」
「臨時市場を恒常化すること。係船料改定案に艦隊側も署名すること。あと、朝食を抜かないこと」
彼は少しだけ呆れた顔をしたあと、すぐに頷いた。
「最後の条件がいちばん難しいな」
「提督が守れないなら、私が毎朝確認します」
「それは助かる」
私は笑ってしまった。こんなふうに未来の予定を口にできる日が来るとは、王都を出たあの日の私は知らない。
岸壁の下では、整え直された係船札が風に鳴っていた。町ではマルタの鍋が湯気を上げ、書記たちは新しい帳簿を運び、船員たちは正しい値段で買った昼食を手にしている。
私はもう、奪われた席を惜しまない。
ここには私が自分で作り直した仕事があり、守りたい港があり、そして。
差し出されたアーベルの手を、私は自分から取った。
冷たい海風の中で、その手だけが不思議と温かかった。




