第15話 返さない帳簿
その夜、官舎へ忍び込もうとした影が二つあった。
見張りの兵が気づいた時には、裏窓の閂が半ばまで外されていた。捕まえたのは港の荷運び人夫だったが、雇い主の名はすぐには出ない。
「狙いは何だと思う」
アーベルが問う。
「私の首ではなく帳簿でしょうね」
実際、部屋を改めると触られたのは監査箱の置き場ばかりだった。持ち去られたものはない。だが、狙われた事実だけで十分だ。
私は監査調書と旧年度控えの一部を、提督府の金庫へ移すよう頼んだ。アーベルは即座に承諾する。
「全部預けろ」
「半分は手元に置きます」
「危険だ」
「分散させる方が安全です」
彼は少しだけ渋い顔をしたが、やがて折れた。
「……理屈では君が正しい」
「感情では?」
「手元に置かせたくない」
その率直さに、私は言葉を失う。すぐに彼も言いすぎたと思ったのか、咳払いをした。
「監査官を守るのも私の仕事だ」
「なら、私も提督の港を守るのが仕事です」
互いに少しだけ黙る。潮騒だけが窓の外で鳴っていた。
翌朝、捕まえた人夫の一人が口を割った。
「王都の女から金をもらった。帳簿箱を壊して中身を水に落とせって」
「名前は?」
「リ、リディア様って呼ばれてた」
私は椅子に座ったまま、深く息を吸う。とうとう愛人殿自ら手を伸ばしてきた。
「返す気がないのは向こうも同じね」
「こちらも返す必要はない」
アーベルの声は静かだが、怒っていた。
私はうなずく。
「ええ。帳簿も、席も、人生も、もう返さない」
その言葉を口にした時、ようやく自分の中で何かが切り替わった気がした。
私は被害者の顔をして王都へ戻るつもりはない。ここで掴んだ証拠も仕事も、誰にも明け渡さない。




