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第六話 招かれざる芸術家

 英雄たちの、あまりに騒がしく、そして混沌とした日常が、また一つ過ぎ去っていく。

 アイリス・アークライトは、自室に与えられた豪奢な寝台の上で、静かに深いため息をついた。

 窓の外では、月光が王城の庭園を銀色に照らし、虫の音が穏やかな夜を告げている。

 日中の喧騒が嘘のような、静寂。

 この部屋にいる時間だけが、彼女が「救国の聖女」でも、「アイリス分隊のリーダー」でもなく、ただのアイリスでいられる、唯一の安らぎのひとときだった。


(ギルさんは、今日も騎士団の方々にご迷惑を…)

(ジーロス様は、財務大臣と大喧嘩を…)

(テオさんは、また何か新しい商売を…)

(シルフィさんは、無事に自室にたどり着けたのだろうか…)

 仲間たちの顔を一人一人思い浮かべ、その度に、彼女の胃はキリリと痛んだ。

 魔王軍と戦っていた頃の方が、よほど心労は少なかったかもしれない。

 そして、何より彼女の頭を悩ませているのは、脳内の同居人――自らを「神」と名乗る、不遜で怠惰な存在だ。

 かつては、その圧倒的な力と知識で、世界を救う道を示してくれた。

 だが、平和になった今、彼が発する「神託」は、そのほとんどが「ポテチ買ってこい」という、あまりに俗な指令へと成り下がっていた。

 英雄であることの重圧と、パシリであることの理不尽さ。

 その二つが、ずっしりと彼女の肩にのしかかる。

(私は、このままでいいのだろうか…)

 答えの出ない問いを胸に、彼女は重い瞼を閉じた。

 せめて、夢の中だけは、穏やかでありますように、と。

 その、ささやかな願いさえも、打ち砕かれることを、彼女はまだ、知らなかった。


 翌朝。

 アイリスが目を覚ましたのは、小鳥のさえずりでも、侍女の穏やかな呼び声でもなかった。

「きゃあああああっ!」

 鼓膜を突き刺すような、侍女の悲鳴。

 何事かと寝台から飛び起きたアイリスが、自室のバルコニーに続くガラス扉を見て、息を呑んだ。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。

 バルコニーの中央に、一体の、巨大な氷の像が鎮座していたのだ。

 それは、昨夜まで、そこには決してなかったもの。

 そして、何より異様なのは、その氷像のモデルだった。

 寝台の上で、穏やかな表情で眠る、聖女アイリス・アークライト。

 実物大の、自分自身の氷像だった。


 恐る恐るバルコニーへと足を踏み出す。

 朝日を浴びてキラキラと輝く氷像は、悪趣味な悪戯というには、あまりに精巧で、そして、芸術的なまでに美しかった。

 緩やかに波打つ髪の一本一本、安らかな寝息を立てているかのように微かに開いた唇、寝間着の柔らかなドレープの質感までが、完璧に再現されている。

 まるで、自分の魂の一部を抜き取られ、氷の中に封じ込められてしまったかのような、生々しさ。

 美しい、と、思う前に、背筋を駆け上る、得体の知れない悪寒。

 これは、祝福や称賛の類ではない。

 もっと、歪で、粘着質で、一方的な執着の匂いがした。

 誰が、いつ、どうやって、こんなものを?

 ここは王城の最上階に近い一室だ。

 警備の騎士たちも常に巡回している。

 一夜にして、人の気配もなく、これほど巨大な氷塊を運び込み、これほど精密な彫刻を施すなど、常識的には不可能だった。


 侍女の悲鳴は、すぐに王城の騒動へと発展した。

 知らせを聞きつけ、アイリス分隊の仲間たちが、彼女の部屋へと駆け込んでくる。

「姉御! ご無事でありましたか! 姉御を狙うとは、万死に値する不埒な輩め! このギルが、犯人を見つけ出し、原子レベルまで粉砕してくれるであります!」

 最初に飛び込んできたギルは、氷像を見るなり激昂し、その拳から魔力のオーラを立ち上らせた。

「まあまあ、落ち着きたまえ、ギル。…フム、これは…」

 次に現れたジーロスは、氷像を値踏みするように眺め、扇子で口元を隠した。

「なかなかの造形美だ。この透明度、魔力制御の精密さ、見事なものだよ。…だが、ノン! この指先の角度が、あとコンマ三ミリ、内側に入っていれば、もっと官能的な憂いを表現できたはずだ。まだまだだね。僕の美的センスには、遠く及ばない」

「ひひひ…こいつは、すげえや…」

 目をぎらつかせながら現れたテオは、氷像の周りをぐるぐると回り、その価値を計算していた。

「おい、アイリス。こいつを溶かして小瓶に詰めて『聖女様の涙の氷片』って名前で売らねえか? 絶対に儲かるぜ! 病が治るとか、恋が叶うとか、適当な効能つけとけば完璧だ!」

「わあ…! とっても綺麗です! 氷のお姫様みたい…!」

 最後にやってきたシルフィは、目をキラキラと輝かせ、その氷像に純粋な感動の声を上げた。

 仲間たちの、あまりにいつも通りの、そして全く噛み合わない反応に、アイリスは眩暈を覚えながら、精神を集中させた。

 この異常事態を報告すべき相手は、一人しかいない。

(――神様! 大変です! 私の部屋のバルコニーに、何者かが、私の姿を模した巨大な氷像を…!)

 必死の思いで送った脳内通信。

 数秒の沈黙の後、彼女の脳内に響いたのは、あくび混じりの、あまりに気の抜けた声だった。

『…んあ? …氷像? …だから、なんだ。俺の知ったことか』

(し、しかし、これはただ事では…!)

『…それより新人。先日の「海竜のうろこ味」も悪くなかったが、やはり俺の集中力を最高に高めるのは、ソルトリッジ社製の「厚切りコンソメ」だ。あの絶妙な歯ごたえと、指についたパウダーの味が思考をクリアにする。王家の在庫にあるのは、どうせ別メーカーの薄いやつだろう。話にならん。一刻も早く、いつものやつを入手してこい』

 あまりに平常運転な、そしてあまりに理不尽な返答に、アイリスは膝から崩れ落ちそうになった。

 世界を救った神の威厳は、もはや欠片も残っていなかった。

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