第五話 王城という名の迷宮
ソラリア王城の東棟、アイリス分隊に与えられた豪華な居住区画。
その一室で、エルフの弓使いシルフィは、窓から差し込む朝日に、心地よさそうに目を細めていた。
故郷の森の木漏れ日に似た、優しい光。
眼下には手入れの行き届いた美しい庭園が広がり、小鳥たちのさえずりが聞こえる。
(…平和、です)
魔王城での激戦も、神との対峙も、今では遠い夢のようだ。
仲間たちと、こうして王城で穏やかな朝を迎えられる。その事実が、彼女の心を温かい幸福感で満たしていた。
彼女は今や、ただのエルフの弓使いではなかった。
「魔王を討った英雄の一人」そして「神秘の狩人」として、特に王都の子供たちの間では絶大な人気を誇る、憧れの的となっていた。
「よし…!」
シルフィは、一つ、決意を固めた。
今日は、絶対に、一人で、朝食会場である大食堂までたどり着いてみせる、と。
ここ数ヶ月、彼女は城内で移動するたびに仲間とはぐれ、その度に衛兵に保護されるという失態を繰り返していた。
だが、今日の彼女は違う。
昨夜、眠る前に、アイリスから「この廊下をまっすぐ行って、突き当りの階段を降りるだけです」という、極めてシンプルな道順を、十回も復唱して教わっていたのだ。
(まっすぐ行って、階段を降りる…)
彼女は、その呪文のような言葉を胸に、意気揚々と部屋の扉を開けた。
目の前には、朝日が差し込む、長い、長い廊下が続いている。
よし、完璧だ。
シルフィは、自信に満ちた一歩を踏み出した。
その、一歩が、運命の分かれ道だった。
彼女は、部屋を出て、右に曲がるべきだったのだ。
だが、朝日が綺麗だったという、ただそれだけの理由で、彼女は左へと曲がってしまった。
もちろん、本人にその自覚はない。
(まっすぐ、まっすぐ…)
彼女は、機嫌よく鼻歌を歌いながら、長い廊下を進んでいく。
やがて、突き当りには、確かに階段があった。
(アイリス様の言う通りです! これを、降りるのですね!)
彼女は、何の疑いもなく、その螺旋階段を下りていった。
下りても、下りても、景色は変わらない。
ただ、ひんやりとした、湿った空気が漂い始める。
ようやく階段の終わりが見えた時、彼女の目の前にあったのは、豪華な大食堂ではなく、薄暗く、埃っぽい、巨大な酒樽がいくつも転がる、だだっ広い空間だった。
「…あれ?」
王城の、巨大なワインセラーだった。
「しょ、食堂では…ない…?」
彼女は、初めて、自分が道を間違えた可能性に思い至る。
だが、彼女の、エルフとしての(そして方向音痴としての)思考は、常人には理解不能な結論を導き出した。
(そ、そうか! きっと、今日の朝食は、ここで開かれるピクニック形式なのですね! アイリス様も、粋な計らいを!)
超絶ポジティブな勘違いと共に、彼女は、一番大きな樽の影にちょこんと座り、仲間たちがやってくるのを、健気に待ち始めた。
もちろん、誰も来るはずがない。
やがて、待ちくたびれた彼女は、樽に寄りかかったまま、すーすーと、穏やかな寝息を立て始めた。
時を同じくして、王城の衛兵詰所。
一人の、新米らしき若い衛兵が、衛兵の隊長に、緊張した面持ちで報告をしていた。
「た、隊長! 大変です! アイリス分隊のシルフィ様が、またしても、お姿が見えないと、侍女たちが…!」
その報告に、コーヒーを飲んでいた衛兵隊長は、動じなかった。
彼は、カップを置くと、やれやれと首を振り、壁に貼られた、巨大な王城の見取り図の前に立った。
「新人、慌てるな。これは、有事ではない。日常だ」
「に、日常、でありますか!?」
「そうだ。これより、第一級王城内捜索任務、『コード・エルフ』を発動する。お前に、この任務の極意を教えてやる」
先輩衛兵は、見取り図の、いくつかの箇所を、慣れた手つきで、赤いインクで丸で囲み始めた。
「いいか。シルフィ様は、常人の思考で探してはいけない。『なぜ、こんな場所に?』と思う場所を、重点的に探すんだ。例えば、西塔の洗濯室のシーツの中、大書庫の天文学の棚の裏、そして、厨房の巨大な鍋の中…これらは全て、過去に発見された実績のある場所、『特級捜索ポイント』だ」
新米衛兵は、信じられないという顔で、その地図を見つめていた。
それは、もはや城の地図ではなかった。
一人の絶望的な方向音痴が歩くことで生まれる、予測不能な「移動」を攻略するための、騎士たちの知恵が詰まった戦術盤だった。
「よし! 全員、捜索開始だ! 今回の発見者に、テオ会長から提供された『聖女様ブロマイド(直筆サイン入り)』を進呈する!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
衛兵たちの士気は、最高潮に達した。
シルフィの捜索は、今や、王城の衛兵たちにとって、退屈な日常業務を彩る、一種のレクリエーションと化していたのである。
数時間に及ぶ捜索の末。
一人の衛兵が、ワインセラーの巨大な樽の影で、幸せそうに眠る絶世の美女を発見した。
「…隊長。こちら、第三分隊。…発見しました。ええ、ワインセラーです。はい、無傷です。…え? なぜここに? …本人にしか、分かりません」
その日の午後。
アイリスにこってりと叱られ、しょんぼりと肩を落として自室に戻るシルフィの姿があった。
彼女が、中庭を通りかかった時だった。
数人の子供たちが、木の枝で作った小さな弓で、遊んでいるのが見えた。
子供たちの一人が、シルフィの姿に気づくと、目を輝かせて叫んだ。
「あ! 『神秘の狩人』の、シルフィ様だ!」
子供たちが、駆け寄ってくる。
「シルフィ様! 僕たちに、弓を教えてください!」
「森では、どうやったら迷子にならないの?」
その、最後の質問に、シルフィの胸が、チクリと痛んだ。
彼女は、困ったように微笑むと、子供たちの頭を、優しく撫でた。
「…それは、私にも、分かりません」
その答えに、子供たちは、きょとんと目を丸くする。
だが、すぐに、それが、伝説の狩人ならではの、深遠なジョークなのだと解釈し、キャッキャと笑い始めた。
その、無邪気な笑顔に、シルフィの心も、少しだけ、軽くなった。
自分は、確かに、方向音痴で、仲間たちに迷惑ばかりかけている。
でも、そんな自分でも、この子供たちにとっては、憧れの英雄なのだ。
その事実が、彼女の胸を、温かい誇りで、満たしていった。
(明日こそは、絶対に、食堂にたどり着いてみせます…!)
彼女の、あまりにもささやかで、そして、あまりにも達成困難な目標は、今日もまた、新たな決意と共に、明日の朝へと持ち越されるのだった。




