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第三十八話 涙の降伏

 ノクト()による、あまりにも個人的で、あまりにも陰湿な「お仕置き」が始まってから、一週間が経過した。

 北の果てに立つ、かつては完璧な美を誇った氷の城は、今や、混沌の権化のようなアイリス分隊によって、その原型を留めないほどに蹂躙され尽くしていた。


 その日、レイラの精神は、ついに限界を迎えた。

 きっかけは、またしても、シルフィだった。

「うぅ…アイリス…煙突の中は、暗くて怖いですぅ…」

 いつものように城で迷子になった彼女は、どういうわけか、大広間にある巨大な暖炉の煙突の内部に、挟まって動けなくなっていた。

 その、か細い救助要請に、真っ先に駆けつけたのは、やはりギルだった。

「おのれ、煙突め! シルフィ殿を閉じ込めるとは、万死に値するでありますぞ!」

 ギルは、救出のために、最も合理的で、最も破壊的な手段を選択した。

 すなわち、煙突そのものを、根本から、殴り壊すことである。

 彼の剛腕が、暖炉の土台を粉砕した瞬間、城全体が悲鳴を上げた。

 完璧なシンメトリーで設計されていたレイラの城は、その中心構造の一部を失い、バランスを崩して、ガラガラと音を立てて、ゆっくりと、しかし確実に、傾き始めたのだ。

 ジーロスが飾り付けたピンクの照明が明滅し、ミラーボールが床に落ちて砕け散る。テオが設営したオークション会場の商品が、棚から滑り落ちた。

 その、自らの世界の崩壊を決定づける光景を、レイラは、広間の隅で、虚ろな目で見つめていた。

 もはや、彼女の心には、怒りも、悲しみもなかった。

 ただ、終わりのない混沌と破壊が、そこにあるだけだった。

 完璧な美の世界は、完全に、汚された。

 彼女は、ゆっくりと立ち上がると、騒ぎの中心にいるアイリスに向かって、ふらふらと歩み寄った。

 そして、その場に、へなへなと崩れ落ちる。

「……もう、勘弁してください…」

 その声は、か細く、震えていた。

 彼女の、完璧なまでに美しかった顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

「もう…私の世界を、汚さないでください…。私のコレクションも、城も、全て差し上げます…。ですから、どうか…どうか、この人たちを、連れて帰ってください…お願いします…」

 氷の女王は、泣いていた。

 自らの美学の完全な敗北を認め、ただ、混沌からの解放を、必死に許し乞うていた。


 ◇


 ミストの精神もまた、崩壊の瀬戸際にあった。

 彼の目の前には、未だに、無限に柵を飛び越え続ける、幻影の羊の群れが映し出されている。

「…十万九千七百二十一匹…十万九千七百二十二匹…」

 彼の口は、無意識に、意味のない数字を紡ぎ続けていた。

 その、虚ろな瞳が、独房の扉が開いたのを、ゆっくりと捉える。

 独房に現れたアイリスは、これまでの退屈な「ゲーム」の終了と、最終試練の開始を告げた。

 衛兵たちが運び込んできたのは、巨大なガラス製の箱。その中には、天井に届くほどの、純白の、サラサラとした砂が満たされていた。

 そして、その隣には、空っぽの、同じ大きさのガラス箱と、一本の、極めて繊細な銀のピンセットが置かれている。

「…なんだね、これは…?最後のゲームは、もっと知的なものだと、期待していたのだが…」

 ミストは、最後のプライドを振り絞り、傲慢な態度を崩さなかった。

 アイリスは、ノクト()の言葉を、ただ無感情に告げる。

「これが、あなたへの最後のゲームです。その箱の中には、約一億粒の砂が入っています。そして、その中に、たった一粒だけ、黒い砂が混じっています」

「……なに?」

「あなたのやることは、一つ。そのピンセットだけを使い、白い砂の中から、黒い砂の一粒を見つけ出してください。ルールは、以上です」

 ミストは、絶句した。

 一億分の一。

 彼の、完璧なまでの論理的思考が、瞬時に、その行為の絶望的なまでの無意味さと、天文学的な確率の低さを弾き出す。

「ふ、ふざけるな! こんなもの、ゲームではない! ただの、拷問だ! そこに、ロジックも、美学も、何一つ存在しないではないか!」

ノクト()より伝言です。「その通り。これはゲームではない。俺の二百時間を奪ったお前への、罰だ」』

 アイリスの冷たい言葉が、彼の最後の反論を封じた。

 ミストは、震える手で、ピンセットを握った。

 一粒、また一粒と、白い砂を隣の箱へと移していく。

 その、一粒一粒が、彼のプライドを、確実に削り取っていく。

 壮大なゲームを創造し、世界を盤上に見立てていた、この自分が。

 今、やっていることは、ただ、無意味な砂粒を、半永久的に移動させ続けること。

 一日が過ぎ、二日が過ぎた。

 彼の思考は、徐々に、単純化されていった。

(白い…白い…白い…黒は、どこだ…? ロジックは? 法則は? なぜだ? なぜ、見つからない…?)

 そして、三日目の朝。

 アイリスが独房を訪れると、ミストは、砂の山に突っ伏して、嗚咽を漏らしていた。

「…もう、やめてくれ…」

 彼は、顔を上げた。その瞳は、正気を失い、涙で潤んでいた。

「意味のないことは、もうしたくありません…。降伏します…。私の、完敗です…だから、だから、お願いです…。何か、意味のあることを、させてください…」

 論理の怪物は、意味の喪失に耐えられず、ついに、涙ながらに降伏したのだった。


 ◇


 数日後。

 半壊した氷の城の大広間に、アイリス分隊と、精神的に完全に衰弱しきったレイラとミストが、一堂に会していた。

 二人は、もはや、かつての傲慢な魔族の面影もなく、ただ、怯えた子犬のように、小さく震えている。

 アイリスは、その二人を前に、ノクト()の最後の言葉を、冷たく告げた。

「あなたたちの降伏、そして謝罪は、受け入れられました。ですが、二度と、このような愚かな過ちを繰り返さないと、誓っていただきます」

 ノクト()が要求した誓約は、三つ。

 一つ、今後一切、王都及びその周辺のマナ通信網に干渉しないこと。

 二つ、今後一切、アイリス・アークライト、及び、その関係者に、物理的、精神的、その他一切の方法で、接触しないこと。

 そして、三つ目。

「…今後一切、他者の神聖なるゲーム時間を妨害せず、セーブデータを破損させるような行為は、絶対に、行わないこと」

 その、あまりに個人的で、核心を突きすぎている誓約に、レイラはよく分からないまま頷き、ミストは、ビクッと体を震わせて、涙ながらに、何度も、何度も、頷いた。


 誓約は、交わされた。

 ノクト()による「トラウマ植え付け作戦」は、完璧な形で、その目的を達成した。

 レイラとミストは、アイリスたちに深いトラウマを植え付けられ、その日のうちに、王都から追放された。

 ギルに両脇を抱えられ、まるでゴミでも捨てるかのように、国境の外へと放り出されていく二人の背中は、あまりにも小さく、そして哀れだった。


 全ての騒動が、終わった。

 アイリス分隊のメンバーは、それぞれの「戦利品」を手に、王都へと帰還した。

 アイリスの脳内に、満足げなノクト()の声が響く。

『「トラウマ植え付け作戦」完了だ。ミッション評価、S+。上出来だ、新人』

 その声には、ようやく、いつもの、不遜な響きが戻っていた。

『…さて。奴らへのお仕置きは終わったが、俺の心の傷は、まだ癒えてはいない。破損したセーブデータの復旧には、最低でも数週間はかかるだろう。その間の、俺の精神的苦痛に対する慰めとして、お前には、国内で販売されている全ての限定ポテチを、発売日に、俺の元へ献上する義務を課す。いいな?』

(…はい。承知、いたしました…)

 アイリスは、もはや、何も言う気が起きなかった。

 王国の危機は去った。

 だが、彼女の、聖女にしてノクト()のパシリという、理不尽な日常は、これからも、変わらずに続いていくのだった。

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