第三十七話 ミストへのお仕置き
レイラの完璧な美の世界が、アイリス分隊という名の混沌によって汚染され、彼女の精神が崩壊の一途を辿っていた頃。
王城の最も深い場所にある、特別独房。
もう一人の厄介者、幻惑のゲームマスター・ミストは、静かにその屈辱の時を待っていた。
彼はただ、冷たい石の床に座り、目を閉じて、自らの敗因を、完璧なロジックで以て分析し続けていたのだ。
(…おかしい。私のロジックは完璧だった。あの聖女の、常軌を逸した攻略速度こそが、この世界の理から外れた「不条理」なのだ。そうだ、私は負けたのではない。ゲームのルールそのものが、理不尽な不正行為によって捻じ曲げられたに過ぎない…)
彼は、自らのプライドを保つため、必死に思考を巡らせていた。
やがて、自分を打ち負かしたあの聖女が、自分を断罪しにやってくるだろう。
その時こそ、次のゲームの始まりだ。
彼は、次の知的な対話を、次の論理の戦いを、心のどこかで期待していた。
その、静寂を破り、重い鉄の扉が開く音が響いた。
現れたのは、聖女アイリス・アークライト。
彼女は、囚人であるミストを前にしても、その凛とした佇まいを崩さなかった。
「ミスト。あなたに、ノクトからの伝言を預かってきました」
ミストは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、敗者としての悔しさではなく、好敵手を前にした、挑戦者の光が宿っていた。
「フン…ついに、その姿を見せない卑怯なプレイヤーが、私にメッセージを送ってきたかね。なんだね、私の才能に恐れをなして、停戦協定でも結びに来たのかい?」
彼の、相変わらずの傲慢な態度に、アイリスは表情一つ変えず、ノクトの言葉を、ただ淡々と代弁した。
「『君を、僕の最高のライバルと認めよう』、と」
「……なに?」
ミストは、思わず、間の抜けた声を上げた。
予想していた罵詈雑言でも、勝利宣言でもない。
まさかの、相手からの、最大級の賛辞。
彼の、砕け散ったはずのプライドが、その一言で、急速に修復されていくのを感じた。
「…フ、フフフ…。ハッハッハ! そうか! やはり、そうだったのだ! あのプレイヤーも、私の才能を、この私という存在を、認めざるを得なかったのだ! 私の芸術とロジックは、神をも超える高みにあったのだ!」
ミストは、高らかに笑った。
もはや、敗北の屈辱など、どこにもない。
彼は、究極のライバルに認められた、選ばれしゲームマスターとして、誇らしげに胸を張った。
「いいだろう、聖女アイリス! その言葉、確かに受け取った! これから、私と君のプレイヤーとの間で繰り広げられる、神々の遊戯と呼ぶにふさわしい、永遠のゲームを始めようではないか!」
ノクトによる、史上最も退屈で、最も残酷な「お仕置き」は、こうして、相手に最高の期待を抱かせた状態で、その幕を開けた。
アイリスは、衛兵に命じて、独房の中に、小さなテーブルと椅子、そして、山盛りの豆が乗った皿と、空の皿、一膳の箸を運び込ませた。
「…なんだね、これは? 次のゲームの、メタファーかね? 豆は民衆を、箸は騎士団を、そして皿は世界を表している、とでも?」
ミストは、知的なゲームが始まると信じ、深読みを始める。
アイリスは、首を横に振った。
「いいえ。最初のゲームは、『豆運び』です」
「……は?」
「一時間以内に、こちらの皿にある千粒の豆を、箸だけを使って、あちらの皿に全て移してください。それが終わったら、今度は反対側の皿に豆を移してください。それを夜八時まで繰り返してください。ルールは以上です」
ミストの、完璧な笑顔が、凍りついた。
豆運び。
それは、子供のしつけか、修行僧の精神鍛錬でしか聞かない、あまりにも地味で、あまりにも退屈な、ただの「作業」だった。
「ま、待て! 待ちなさい! この行為に、一体、どんなロジックがあるというのだ!? 何かの暗号か!? この豆の配置に、何か意味があるのか!?」
彼は、必死に、この退屈な行為の裏に隠された、深遠なゲーム性を見出そうとする。
アイリスは、ノクトの言葉を、無慈悲に繰り返した。
「『箸を正確に操る指先の精密さは、高度な戦略シミュレーションにおける、完璧なコマンド入力の基礎となる。全てのゲーマーの、原点にして頂点。それが、豆運びだ』…だそうです」
あまりにこじつけがましい、しかし、妙な説得力のある説明。
ミストは、言葉を失った。
そして、最高のライバルに認められたというプライドが、彼に、この理不尽なゲームからの逃亡を許さなかった。
「…い、いいだろう…! やってやろうではないか! この程度の基礎訓練、私にかかれば、造作もないこと!」
彼は、震える手で箸を取り、一粒目の豆を掴んだ。
その日から、ミストの、地獄の「ゲーム」生活が始まった。
二日目のゲームは、「城の廊下の雑巾がけレース」。
対戦相手は、ギルだった。
「よーい、スタート!」という衛兵の合図と共に、ギルは「おおおおおっ!」と雄叫びを上げ、常識外れの腕力と脚力で、凄まじいスピードで雑巾がけを開始した。
その速さは、もはや掃除ではなく、床の石畳を削り取る研磨作業に近かった。
一方のミストは、「いかに効率的に、最小の動きで、最大の面積を拭き上げるか」を計算し、美しいフォームで雑巾がけを始めたが、結果は見るまでもない。
ギルが、廊下の端までを三往復し、床をピカピカ(物理的に)にした頃、ミストはまだ、スタート地点から数メートルしか進んでいなかった。
「な…なぜだ! 私の計算では、この角度と速度が、最も効率的なはず…!」
「勝者、ギル教官! 褒美として、焼きたてのパンが贈呈されます!」
衛兵からパンを受け取ったギルは、ミストの肩を、バン!と強く叩いた。
「ミスト殿! なかなか見込みがあるでありますな! 明日からは、私の特別訓練にも参加するといい!」
その、あまりに純粋な善意と、肉体的な衝撃に、ミストの膝は、ガクリと崩れ落ちた。
三日目のゲームは、「羊の数を数える」。
独房の中に、アイリス(を操るノクト)が、幻術で、柵を飛び越える羊の群れを投影し始めた。
ミストの仕事は、その数を、ただひたすらに、数えること。
「一匹、二匹、三匹、四匹…」
彼は、当初、その羊の動きに、何か法則性があるのではないかと分析を試みた。
だが、無駄だった。
羊は、ただ、無限に、柵を飛び越え続けるだけ。
そこに、ロジックも、美学も、ゲーム性も、何一つ存在しない。
ただ、ひたすらに、退屈で、無意味な時間が、彼の精神を蝕んでいく。
彼は、自分が、世界最高のゲームマスターから、ただの羊飼いへと成り下がったような、底知れない虚無感に襲われた。
そして、四日目。
アイリスが独房を訪れると、ミストは、壁に向かって、ぶつぶつと何かを呟いていた。「…豆は…直角に…雑巾の摩擦係数は…羊が、羊が、私のロジックを…」
その瞳から、かつての傲慢な光は、完全に消え失せていた。
ノクトの「お仕置き」は、完璧だった。
ミストという、プライドと知性で武装した男にとって、物理的な拷問よりも、遥かに効果的な精神攻撃。
それは、「退屈」と「無意味」という名の、最も残酷な刃だった。
彼の、ゲームマスターとしての魂は、完全に、そして静かに、殺されようとしていた。
アイリスの脳内に、満足げなノクトの声が響く。
『フン。ロジック狂のプライドは、完全に崩壊したな。これで奴も、二度と、俺の通信環境を汚染するような、面倒なゲームを仕掛けてくることはあるまい。…俺の、二百時間を失った心の傷は、まだ癒えんがな』
ノクトの、あまりに個人的な復讐は、今、その終わりを、静かに迎えようとしていた。




