第三十六話 レイラへのお仕置き
狂気の舞踏会は、終わりを告げた。
結界は完全に崩壊し、魔力を失ったレイラとミストは、アイリス分隊によって速やかに捕縛された。
水浸しになった大広間では、正気を取り戻した貴族たちが何が起こったのか理解できないまま騒ぎ立て、衛兵たちがその対応に追われている。
全てが混沌とする中、アイリスの脳内に、全てを終えた後のような、静かで、そして底知れない満足感を湛えたノクトの声が響いた。
『よし。…「トラウマ植え付け作戦」、第一段階完了だ。…さて、新人。本当の地獄は、ここからだぞ』
その声は、これから始まる復讐劇への期待に満ち溢れていた。
ノクトの次なる指令は、アイリスの、そして仲間たちの予想を遥かに超えるものだった。
彼は、レイラに関して、あまりにも不可解な指示を出したのだ。
『新人。レイラを、彼女の居城である北の氷の城へと、丁重に送り届けてやれ』
(え…? 送り届ける、ですか? 罰するのではなく?)
アイリスは、思わず聞き返した。
『ああ。そして、彼女にこう伝えろ。「あなたの望み通り、最高のコレクションをあげましょう」と』
その言葉に込められた、あまりに冷たい皮肉と悪意に、アイリスは背筋が凍るのを感じた。
◇
王国の魔術師団が総力を挙げて作り出した、巨大な転移魔方陣によって、アイリス分隊と、囚人であるはずのレイラは、遥か北の凍てつく大地へと転移した。
目の前には、天を衝くかのようにそびえ立つ、巨大な氷の城。
全てが完璧なシンメトリーで設計され、オーロラの光を浴びて七色に輝くその城は、まさしくレイラの美学の結晶だった。
城の中は、静寂と秩序に支配されていた。
床も、壁も、調度品も、全てが一点の曇りもない氷でできており、塵一つ落ちていない。
そして、広大なホールには、彼女が世界中から集めた「コレクション」――絶滅したはずの古代生物や、伝説の英雄が使った武具などが、完璧な状態で凍結保存され、美術館のように並べられていた。
レイラは、自らの城に戻り、一瞬だけ、その瞳に安堵と、そして微かなプライドの色を浮かべた。
たとえ敗北し、囚人となったとしても、この完璧な美の世界だけは、誰にも汚すことはできない、と。
その、彼女の最後のプライドを、アイリスは、ノクトの言葉を代弁し、無慈悲に打ち砕いた。
「レイラ。ノクトからの伝言です。『あなたの望み通り、最高のコレクションをあげましょう』、と」
アイリスがそう告げると、仲間たちが、まるで自分の家にでも入るかのように、ずかずかと城の中へと上がり込んできた。
「つきましては、私たちアイリス分隊全員で、本日より、ここに『ホームステイ』させていただくことになりました」
「……は?」
レイラの、完璧なポーカーフェイスに、初めて、亀裂が入った。
ノクトによる、史上最も陰湿で、最も残酷な「お仕置き」は、こうして始まった。
それは、彼女の完璧な美の世界を、混沌によって徹底的に汚染し続けるという、精神的な拷問だった。
ギルは、城に到着するなり、自らの日課である「剛力訓練」を開始した。
「うおおおおおっ! この城の壁、なかなか殴りごたえがありますな!」
彼は、鍛錬と称して、繊細な彫刻が施された氷の壁や柱を、サンドバッグ代わりに殴り始めた。
ゴッ! バキィッ! という鈍い音が響き渡り、壁には蜘蛛の巣のようなヒビが入り、美しい氷の彫像の腕が、無残に砕け散った。
「なっ…! 何をするのですか、この野蛮人! それは、古代氷河期の氷から、私が百年かけて削り出した芸術品…!」
「おお! 百年も! それは素晴らしい! だが、姉御を守るための我が剛力の前では、百年の芸術など、無意味でありますな!」
ギルの、あまりに純粋な破壊活動に、レイラの顔が引き攣る。
ジーロスは、この城の「美的センスの欠如」に、我慢の限界を迎えた。
「ノン! この城は、確かに技術的には見事だ! だが、あまりに冷たく、無機質で、パッションが感じられない! これでは、人の心は動かせないのだよ!」
彼は、自らの光輝魔術を解放し、城の「改築」を始めた。
純白だった氷の壁は、彼の趣味で、けばけばしいピンク色にライトアップされた。
静寂を保っていたメインホールの中央には、ミラーボールのように輝く巨大な光の球が吊るされ、チカチカと悪趣味な光を放ち始める。
レイラのコレクションである氷像たちは、ジーロスの魔法によって、陽気なオペラを歌い出した。
「やめなさい…! 私の、静謐な美の世界が…! なんという下品な…!」
「フフン、これぞ美の革命だ! 君も、ようやく真の芸術に目覚める時が来たのだよ、レイラ君!」
ジーロスの、善意百パーセントの芸術テロによって、レイラの城は、悪趣味なディスコホールへと変貌していった。
テオは、レイラのコレクションルームで、よだれを垂らしていた。
「ひひひ…! すげえ…! こいつは、宝の山だぜ!」
彼は、ノクトから一時的にマナ通信網の利用許可を得ると、早速、自らの信仰ビジネスのネットワークを駆使し、レイラのコレクションの「叩き売り」を始めた。
「商工会の会頭かい? あんたが好きそうな、古代ドワーフ王の凍結された酒樽があるんだが、どうだい? 相場の半値でいいぜ!」
「ああ、ジーロンズ商会か? そっちには、凍ったままの幻の霊薬『千年雪蓮花』を回してやるよ! もちろん、代金は前払いでな!」
レイラは、ガラス越しに、自らが命を懸けて集めた至宝の数々が、目の前で、金に換えられていく様を、ただ見ていることしかできなかった。
「そ、それは、私が悠久の時をかけて集めた、一点物の…!」
「ひひひ! 心配すんな! あんたの代わりに、俺が、その価値を、全世界に広めてやってんだからよ! 感謝してくれや!」
テオの、悪魔の所業によって、レイラの魂の結晶は、ただの商品へと成り下がっていった。
シルフィは、いつものように、迷子になっていた。
「うぅ…アイリス様ぁ…ここは、どこなのでしょうか…」
ただでさえ方向音痴の彼女にとって、鏡のように反射する氷の城は、巨大な迷宮そのものだった。
彼女は、レイラのプライベートな寝室に迷い込み、天蓋付きの氷のベッドの上で泣きじゃくり、レイラが最も神聖な場所としていた魔術工房に迷い込み、貴重なポーションの瓶をドミノ倒しにした。
そして、最後には、城の最も高い尖塔のてっぺんに、どうやって登ったのかも分からないまま、降りられなくなってしまった。
「た、助けてくださーい!」
シルフィの、か細い救助要請の声。
それに、ギルが、真っ先に反応した。
「シルフィ殿! 今、助けに行くでありますぞ!」
ギルは、最短ルート、すなわち、壁を、床を、天井を、その剛力で突き破りながら、シルフィの元へと向かった。
城の内部は、彼の破壊的な救助活動によって、もはや原型を留めていなかった。
完璧な美の世界は、たった一日で、混沌と破壊と、悪趣味と金欲に、完全に汚染された。
レイラは、自室の隅で、ガタガタと震えていた。
その瞳から、光は消え失せている。
ギルの破壊音、ジーロスのオペラ、テオの商談、そして、シルフィを探す仲間たちの怒号。
それらが、悪夢の交響曲となって、彼女の精神を、少しずつ、しかし確実に、蝕んでいく。
ノクトの「お仕置き」は、物理的な暴力よりも、遥かに残酷で、そして効果的だった。
それは、彼女が最も大切にしていた「美学」と「秩序」そのものを、内側から、徹底的に破壊し尽くすことだったのだから。
彼女の精神が、完全に崩壊するまで、あと、数日も残されてはいなかった。




