第三十四話 反撃開始
ノクトの沈黙。
それは、アイリスの脳内に、絶対的な静寂と、底知れない恐怖をもたらした。
二百時間のプレイ時間が失われたという、彼女には到底理解できない理由で、自らの内に宿る絶対者は、今や、個人的な怨嗟の化身と化していた。
舞踏会場では、暴走するミストの幻術と、それを支配しようとするレイラの氷結魔法が、未だ激しく衝突を続けている。
だが、アイリスの心にあったのは、目の前の脅威よりも、脳内の静寂に対する畏怖だった。
その、張り詰めた沈黙は、唐突に破られた。
『―――新人』
響いたノクトの声は、もはや慟哭の響きを一切含んでいなかった。
そこにあったのは、全ての感情が蒸発し、純粋な殺意と、冷徹な計算だけが残った、絶対零度の声だった。
『作戦目標を最終段階へと移行する。「トラウマ植え付け作戦」の、第一段階を開始だ』
(か、神様…!?)
『感傷に浸っている暇はない。奴らのせいで、俺の貴重な時間は、すでに二百時間も無駄になったのだ。これ以上、一秒たりとも、奴らの茶番に付き合う気はない』
ノクトは、先ほど自らが解析した、完璧な攻略法を、今度は「お仕置き」のための手順として、アイリスに叩きつけた。
『ターゲットは二つ。天井のシャンデリアと、舞台のパイプオルガン。奴らの魔力の源だ。これを、寸分の狂いもなく、同時に破壊する。…いいな、新人。これは、もはや王国の危機を救うための戦いではない。俺の、失われた二百時間のための、復讐だ。失敗は、許さん』
その、あまりに個人的で、あまりに恐ろしい決意の波動を受け、アイリスはごくりと息を呑んだ。
彼女は、仲間たちに向き直り、ノクトの私怨に満ちた指令を、できる限り、聖女らしい言葉に翻訳して伝えた。
「皆さん! 反撃の時です! あの二人の魔力の源が分かりました!」
アイリスの凛とした声に、仲間たちが再び結束する。
「目標は二つ! 天井のシャンデリアと、舞台のパイプオルガンです!」
彼女は、震える指で、広間の両極にある巨大な装飾品を指さした。
「この二つを、同時に破壊します! これより、役割分担を伝えます!」
ノクトの指令は、彼の怒りを反映してか、あまりにも的確で、そして容赦がなかった。
「ジーロス、シルフィ! お二人は、シャンデリアの破壊をお願いします!」
『あのナルシストには、奴が執着する「美」の象徴を破壊させろ。そして、あの方向音痴のエルフの、予測不能な一撃が、レイラの防御結界を貫く、唯一の可能性だ』
「フン、あの醜悪なシャンデリアかね? いいだろう! 僕の光魔法で、より芸術的に、光の粒子へと昇華させてやろう!」
「わ、私が、ですか!? 頑張ります!」
ジーロスは、自らの美学を発揮する舞台を与えられ、扇子を広げた。
シルフィは、突然の大役に、目を白黒させている。
「ギル、テオ! お二人は、パイプオルガンの破壊を!」
『あの筋肉馬鹿には、分かりやすいサンドバッグを。そして、あの詐欺師の、胡散臭い目は、ミストが仕掛けた幻術の、物理的な歪みを唯一見抜ける可能性がある』
「おお! あのデカブツを、殴り放題ということでありますな! お任せを!」
「ひひひ…! 俺の目が頼りってわけか。見るからに高そうなオルガンだ。壊す前に、金になりそうな部品をいくつか、失敬できねえかな…」
ギルは、腕をブンブンと振り回し、テオは、破壊対象を前に、そろばんを弾き始めた。「私は、中央で全体の指揮を執り、同時に攻撃の合図を送ります!」
『そうだ、新人。お前は、このオーケストラの指揮者だ。最高の不協和音を、奴らに聞かせてやれ』
作戦は、決定された。
四人は、アイリスの指示に従い、一斉に散開する。
その、統率の取れた動きに、レイラとミストが、初めて気づいた。
「おやめなさい! 私の美しいシャンデリアに、何をしようというのです!」
「フン、無駄だ! 我がオルガンは、幻術の城壁によって守られている!」
二人の妨害が始まる。
レイラは、無数の氷の槍を、ジーロスとシルフィに向かって放つ。
ミストは、ギルとテオの前に、幻影の迷宮を出現させた。
だが、今のアイリス分隊は、もはやただの寄せ集めではない。
ノクトという、絶対的な司令塔を得た、完璧な攻略パーティーだった。
ノクトは、アイリスを通じて、的確な指示を飛ばす。
「ジーロス、シルフィの援護を!」
「ノン! 僕の美の前では、氷の槍など、ただの雪の結晶にすぎないよ!」
ジーロスの放った光の壁が、氷の槍をきらびやかな光の粒子へと変え、シルフィの道を切り開く。
「テオ、幻影の弱点は!?」
「ひひひ! 簡単なことよ! あのパイプの根本、一本だけ、微妙にサビが浮いてやがる! あのケチな野郎、見えないところは中古品で済ませやがったな! あそこが物理的な核だ!」
「ギル!」
「おおおおおっ!!」
ギルは、テオが指さした一点に向かって、幻影の壁を、その剛力で、紙屑のように突き破っていく。
ついに、四人が、それぞれの攻撃態勢を完了させた。
ジーロスは、その魔力の全てを、一本の巨大な光の槍へと収束させる。
シルフィは、エルフの秘術を込めた矢を、弓につがえた。
ギルは、必殺の一撃を放つべく、その拳に、ありったけの魔力を込めていた。
アイリスは、広間の中央で、腕を高く掲げた。
彼女の脳内に、ノクトの、冷たいカウントダウンが響く。
『3…2…1…』
「―――今ですッ!!」
アイリスの鋭い声が、合図だった。
天と地で、二つの破壊の閃光が、同時に放たれる。
ジーロスの「光輝の槍」と、シルフィの偶然の軌道を描いた矢が、シャンデリアの根元を正確に貫き、
ギルの「聖女様絶対守護・流星剛腕撃」が、テオが見抜いたオルガンの心臓部を、完全に粉砕した。
キィィィィン! という甲高い破壊音と、
ドゴォォォォン! という地を揺るがす轟音が、
完璧に、同時に、大広間に響き渡った。
魔力の源を絶たれた結界は、もはや、その形を維持できなかった。
天井のシャンデリアが、無数のガラス片となって降り注ぎ、舞台のオルガンは、木っ端微塵に砕け散る。
壁の氷は、急速に融解し、床の幻影は、ノイズと共に消え去っていく。
狂気の舞踏会は、その幕を、あまりにも唐突に、そして暴力的に、下ろし始めた。
結界の崩壊は、目前だった。




