表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/40

第三十三話 私怨の極致

 静寂が、ノクト()の聖域を支配していた。

 先ほどまでの、魂を絞り出すかのような慟哭は、嘘のように消え去っていた。

 ノクトは、特注の椅子の上で、微動だにせず、暗転した魔力モニターをただ、じっと見つめていた。

 その画面には、彼の二百時間の全てを無に帰した、【SAVE DATA:破損しています】という、残酷な宣告の文字が、まるで墓標のように、ぼんやりと浮かび上がっている。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 彼の心を支配していたのは、全ての感情が燃え尽きた後に残る、絶対零度の「無」だった。


 舞踏会場では、アイリスが、脳内に響いたノクト()の絶叫に、凍りついていた。

(神様…? 今のは、一体…? 大丈夫ですか、神様!)

 彼女の必死の呼びかけに、しかし、応答はない。

 まるで、通信が完全に途絶えてしまったかのように、脳内は不気味な静寂に包まれていた。

 仲間たちは、目の前の魔力の嵐と、呆然と立ち尽くすリーダーの姿に、困惑の表情を浮かべている。

「姉御? どうかされたでありますか!」

「おい、アイリス! ぼさっとしてる場合じゃねえぞ!」

 ギルとテオの声が、遠くに聞こえる。

 だが、アイリスの意識は、完全に、脳内の沈黙へと囚われていた。

 ノクト()が、泣いていた。

 あの、常に不遜で、常に冷静で、全てを見下していた絶対者()が、まるで世界の終わりのような絶叫を上げた。

 一体、何が起きたというのか。

 彼女は、知らなかった。

 王国の危機よりも、世界の運命よりも、このノクト()にとってはるかに重大な、個人的で、そして取り返しのつかない悲劇が、たった今、引き起こされたということを。


 塔の最上階。

 ノクトの思考は、驚異的な速度で、自らが失ったものの価値を再計算していた。

 二百時間のプレイ時間。

 それは、単なる数字ではない。

 彼が、この退屈な世界で唯一、心からの情熱を注ぎ、完璧なロジックと戦略を組み立て、築き上げてきた、もう一つの帝国。

 希少なアイテムを求めて、何十時間も同じダンジョンを周回した日々。

 難攻不落の要塞を、完璧な奇襲作戦で陥落させた時の、あの歓喜。

 ギルドの仲間たちと、夜を徹して語り合った、次のアップデートへの期待。

 その全てが、レイラとミストという、二人の、あまりにも身勝手で、あまりにも理不尽な「迷惑行為」によって、電子(マナ)の藻屑と消えた。

(…そうか)

 ノクトの心に、一つの、冷たい光が灯った。

(俺は、間違えていた)

 彼は、これまで、この一連の騒動を、自らの快適な引きこもりライフを脅かす「不具合(バグ)」として処理しようとしていた。

 彼らに警告を与え、彼らの行動を制限し、自分の世界から「排除(デリート)」しようとしていた。

 だが、それは、根本的な間違いだったのだ。

 彼らが破壊したのは、単なる通信環境ではない。

 彼らが踏みにじったのは、単なるゲームのデータではない。

 それは、ノクト()の、聖域。

 ノクト()の、歴史。

 ノクト()の、魂そのものだった。


 バグには、修正パッチを当てればいい。

 だが、これはバグではない。

 明確な悪意(あるいは、悪意なき善意という、最もタチの悪い悪意)によって行われた、ノクト()への「攻撃」だ。

 攻撃には、報復を。

 破壊には、それ以上の破壊を。

 それが、この世界の、そして、あらゆるゲームの、普遍的なルールだったはずだ。

 ノクトは、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。

 そして、暗転したモニターに映る、憔悴しきった自分の顔を、無感情に見つめた。

 彼の瞳の奥で、静かな、しかし、決して消えることのない、蒼い炎が燃え上がっていた。


 その、地獄の業火にも似た、冷たい決意の波動が、ついに、アイリスの脳内へと届いた。

 それは、もはや声ではなかった。

 純粋な、殺意の奔流だった。

『―――新人』

 響いた声は、あまりに静かで、あまりに穏やかだったが故に、恐ろしかった。

 先ほどまでの慟哭が、嘘のようだった。

(か、神様…! ご無事でしたか! いったい、何が…)

『…温情案は、全て破棄する』

 アイリスの問いを遮り、ノクト()は、淡々と、そして最終決定事項として告げた。

『奴らを、この舞踏会場から追い出すだけでは、意味がない。奴らを捕縛し、牢に入れるだけでも、不十分だ。…そんな生ぬるい対応では、俺の二百時間は、決して、報われない』

(に、二百時間…?)

 アイリスには、その数字が何を意味するのか、全く理解できなかった。

 だが、その言葉に込められた、底なしの怨念だけは、痛いほど伝わってきた。

『これより、作戦目標を最終フェーズへと移行する。題して、「トラウマ植え付け作戦」だ』

(と、トラウマ…!?)

『そうだ。奴らを、完膚なきまでに叩きのめす。物理的にも、精神的にも、そして、社会的にもだ。奴らが、二度と、俺の視界に入ることさえ考えられなくなるほどの、完璧なトラウマを、その魂に刻み込んでやる』

 それは、もはや、国を救う英雄の戦いではなかった。

 あまりに個人的で、あまりに理不尽で、そして、あまりに一方的な、ただの「お仕置き」の宣告だった。

 ノクト()の私怨は、ついに、極致に達した。

 もはや、世界の危機など、どうでもいい。

 ただ、自分の失われた二百時間を取り戻す(精神的に)ためだけに、彼は、ノクト()の力の全てを、解放することを決意したのだ。

『新人。…これから、本当のゲームを、始めてやる』

 アイリスは、ごくりと息を呑んだ。

 ノクト()の慟哭の理由も、二百時間の意味も、彼女には分からない。

 だが、一つだけ、確かなことがあった。

 史上最悪の迷惑コンビは、今、この世界で、最も怒らせてはいけない存在()を、その最悪の形で、怒らせてしまったのだ、と。

 彼女の背筋を、冷たい汗が伝う。

 それは、目の前の魔力の嵐への恐怖ではない。

 自らの内に宿る、あまりに個人的な理由で、本気になった「ノクト()」への、純粋な畏怖だった。

 ゲーマーの逆襲が、今、静かに、そして最も残酷な形で、始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ