第三十三話 私怨の極致
静寂が、ノクトの聖域を支配していた。
先ほどまでの、魂を絞り出すかのような慟哭は、嘘のように消え去っていた。
ノクトは、特注の椅子の上で、微動だにせず、暗転した魔力モニターをただ、じっと見つめていた。
その画面には、彼の二百時間の全てを無に帰した、【SAVE DATA:破損しています】という、残酷な宣告の文字が、まるで墓標のように、ぼんやりと浮かび上がっている。
怒りではない。
悲しみでもない。
彼の心を支配していたのは、全ての感情が燃え尽きた後に残る、絶対零度の「無」だった。
舞踏会場では、アイリスが、脳内に響いたノクトの絶叫に、凍りついていた。
(神様…? 今のは、一体…? 大丈夫ですか、神様!)
彼女の必死の呼びかけに、しかし、応答はない。
まるで、通信が完全に途絶えてしまったかのように、脳内は不気味な静寂に包まれていた。
仲間たちは、目の前の魔力の嵐と、呆然と立ち尽くすリーダーの姿に、困惑の表情を浮かべている。
「姉御? どうかされたでありますか!」
「おい、アイリス! ぼさっとしてる場合じゃねえぞ!」
ギルとテオの声が、遠くに聞こえる。
だが、アイリスの意識は、完全に、脳内の沈黙へと囚われていた。
ノクトが、泣いていた。
あの、常に不遜で、常に冷静で、全てを見下していた絶対者が、まるで世界の終わりのような絶叫を上げた。
一体、何が起きたというのか。
彼女は、知らなかった。
王国の危機よりも、世界の運命よりも、このノクトにとってはるかに重大な、個人的で、そして取り返しのつかない悲劇が、たった今、引き起こされたということを。
塔の最上階。
ノクトの思考は、驚異的な速度で、自らが失ったものの価値を再計算していた。
二百時間のプレイ時間。
それは、単なる数字ではない。
彼が、この退屈な世界で唯一、心からの情熱を注ぎ、完璧なロジックと戦略を組み立て、築き上げてきた、もう一つの帝国。
希少なアイテムを求めて、何十時間も同じダンジョンを周回した日々。
難攻不落の要塞を、完璧な奇襲作戦で陥落させた時の、あの歓喜。
ギルドの仲間たちと、夜を徹して語り合った、次のアップデートへの期待。
その全てが、レイラとミストという、二人の、あまりにも身勝手で、あまりにも理不尽な「迷惑行為」によって、電子の藻屑と消えた。
(…そうか)
ノクトの心に、一つの、冷たい光が灯った。
(俺は、間違えていた)
彼は、これまで、この一連の騒動を、自らの快適な引きこもりライフを脅かす「不具合」として処理しようとしていた。
彼らに警告を与え、彼らの行動を制限し、自分の世界から「排除」しようとしていた。
だが、それは、根本的な間違いだったのだ。
彼らが破壊したのは、単なる通信環境ではない。
彼らが踏みにじったのは、単なるゲームのデータではない。
それは、ノクトの、聖域。
ノクトの、歴史。
ノクトの、魂そのものだった。
バグには、修正パッチを当てればいい。
だが、これはバグではない。
明確な悪意(あるいは、悪意なき善意という、最もタチの悪い悪意)によって行われた、ノクトへの「攻撃」だ。
攻撃には、報復を。
破壊には、それ以上の破壊を。
それが、この世界の、そして、あらゆるゲームの、普遍的なルールだったはずだ。
ノクトは、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。
そして、暗転したモニターに映る、憔悴しきった自分の顔を、無感情に見つめた。
彼の瞳の奥で、静かな、しかし、決して消えることのない、蒼い炎が燃え上がっていた。
その、地獄の業火にも似た、冷たい決意の波動が、ついに、アイリスの脳内へと届いた。
それは、もはや声ではなかった。
純粋な、殺意の奔流だった。
『―――新人』
響いた声は、あまりに静かで、あまりに穏やかだったが故に、恐ろしかった。
先ほどまでの慟哭が、嘘のようだった。
(か、神様…! ご無事でしたか! いったい、何が…)
『…温情案は、全て破棄する』
アイリスの問いを遮り、ノクトは、淡々と、そして最終決定事項として告げた。
『奴らを、この舞踏会場から追い出すだけでは、意味がない。奴らを捕縛し、牢に入れるだけでも、不十分だ。…そんな生ぬるい対応では、俺の二百時間は、決して、報われない』
(に、二百時間…?)
アイリスには、その数字が何を意味するのか、全く理解できなかった。
だが、その言葉に込められた、底なしの怨念だけは、痛いほど伝わってきた。
『これより、作戦目標を最終フェーズへと移行する。題して、「トラウマ植え付け作戦」だ』
(と、トラウマ…!?)
『そうだ。奴らを、完膚なきまでに叩きのめす。物理的にも、精神的にも、そして、社会的にもだ。奴らが、二度と、俺の視界に入ることさえ考えられなくなるほどの、完璧なトラウマを、その魂に刻み込んでやる』
それは、もはや、国を救う英雄の戦いではなかった。
あまりに個人的で、あまりに理不尽で、そして、あまりに一方的な、ただの「お仕置き」の宣告だった。
ノクトの私怨は、ついに、極致に達した。
もはや、世界の危機など、どうでもいい。
ただ、自分の失われた二百時間を取り戻す(精神的に)ためだけに、彼は、ノクトの力の全てを、解放することを決意したのだ。
『新人。…これから、本当のゲームを、始めてやる』
アイリスは、ごくりと息を呑んだ。
ノクトの慟哭の理由も、二百時間の意味も、彼女には分からない。
だが、一つだけ、確かなことがあった。
史上最悪の迷惑コンビは、今、この世界で、最も怒らせてはいけない存在を、その最悪の形で、怒らせてしまったのだ、と。
彼女の背筋を、冷たい汗が伝う。
それは、目の前の魔力の嵐への恐怖ではない。
自らの内に宿る、あまりに個人的な理由で、本気になった「ノクト」への、純粋な畏怖だった。
ゲーマーの逆襲が、今、静かに、そして最も残酷な形で、始まろうとしていた。




