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第二十七話 美学と偶然

 美学の暴君と、偶然の申し子。

 ジーロスとシルフィの二人が、霜と紋様が蠢く「氷の紋様の扉」をくぐった先は、息を呑むほどに美しく、そして狂気に満ちた空間だった。


 そこは、無限に続くかと思われる、巨大な万華鏡の中だった。

 壁、床、天井、その全てが完璧なまでに磨き上げられた氷の鏡でできており、二人の姿と、どこからか差し込む青白い光を、幾重にも、幾億にも、果てしなく反射し続けている。

「わあ…!」

 シルフィは、思わず感嘆の声を上げた。

「キラキラです! まるで、お星様の中にいるみたいです…!」

 彼女は、ジーロスの礼服の袖を握りしめたまま、子供のように目を輝かせ、無数に映る自分の姿に小さな歓声を上げながら、楽しそうに体を左右に揺らした。

 その動きに合わせて、無数のシルフィの幻像が、鏡の壁の向こうで楽しげに踊る。

「…フム。なるほどね」

 ジーロスは、扇子で口元を隠しながら、この異様な空間を鑑定するように見渡した。

「単なる氷の迷宮ではない。レイラとか言ったか、あのストーカー女、なかなかの美的センスを持っているじゃないか。この、どこまでも続く鏡像の配置が生み出す、無限性と閉塞感の調和。ミニマリズムの極致とも言える、見事な演出だ。僕の芸術には遠く及ばないが、評価に値する」

 彼は、敵が作り出した舞台であるにもかかわらず、その芸術性の批評を始めていた。


 その時、どこからともなく、レイラの冷たく、感情のない声が、空間全体に響き渡った。

『歓迎いたしますわ、挑戦者たち。ここは、私の愛が作り出した「美しき迷宮」。私の愛しいアイリス様に捧げるための、芸術作品の一つ』

 声と共に、目の前に三つの、全く同じに見える氷のアーチが出現した。

『この迷宮に隠された、たった一つの真実の道を見つけ出し、中心にある「永遠の薔薇」を手にすることができれば、貴方たちの勝利。…ですが、もし道を踏み外せば、この美しい氷の中で、永遠に彷徨い続ける、孤独な芸術品となることでしょう』

「フン、面白い趣向じゃないか」

 ジーロスは、不敵な笑みを浮かべた。

「芸術家が作り出した迷宮ならば、その攻略法は、ただ一つに決まっている!」

 彼は、三つのアーチを、まるで絵画を鑑賞するかのように、じっくりと眺め始めた。

「いいかい、シルフィ。真の芸術作品というものは、必ず、黄金比や白銀比といった、宇宙の真理たる『美の法則』に基づいて設計されている。この三つのアーチも、一見同じに見えて、その曲線、厚み、光の反射角度に、必ず、製作者の意図した『最も美しい形』が存在するはずなのだ!」

 ジーロスは、片目をつむり、指でフレームを作りながら、専門家ぶって解説する。

「…なるほど。右のアーチは安定感がありすぎる。凡庸だ。左は、少し奇をてらいすぎている。下品だ。…そう、これだ! この中央のアーチ! この、完璧なまでのシンメトリーと、見る者の心を捉えて離さない、絶妙な曲線美! これこそが、製作者が我々を導こうとしている、唯一の『美しい道』に違いない!」

 彼は、自らの美的センスに絶対の自信をもって、中央のアーチを指さした。

「すごいですね、ジーロス様!」

 シルフィは、尊敬の眼差しでジーロスを見上げる。

 彼女の頭の中には、「美の法則」などという高尚な概念は一切なく、ただひたすらに、「今度こそ迷子にならない」という、ささやかな目標があるだけだった。


 ジーロスは、勝ち誇ったように胸を張り、シルフィを伴って中央のアーチをくぐった。

 だが、その先にあったのは、さらに複雑に鏡が配置された、先ほどよりも方向感覚を失わせる空間だった。

「ノン! おかしいな…! 僕の美学が、間違うはずがないのだが…」

 ジーロスは、首を傾げながらも、次なる分岐点で、再び「最も美しい道」を選択する。

 その結果、彼らは、数分前に自分たちが通ったはずの場所へと、完全に戻ってきてしまっていた。

「…あり得ない! なぜだ!? 僕の完璧な美的センスが、この迷宮の製作者の凡庸なセンスに劣るというのか!? このシンメトリーの配置、よく見れば基礎がなっていない! 左右のバランスがコンマ一ミリずれている! なんという素人仕事だ! これは美ではない、ただの悪趣味な嫌がらせだ!」

 ジーロスの完璧な美学は、レイラの狂気が作り出した迷宮の前で、全く通用しなかった。

 彼は、道に迷っていることへの焦りよりも、自らの美学を否定されたことへの屈辱で、完全に我を忘れて芸術論の独演会を始めていた。


 その、ジーロスが扇子を振り回し、「美とは何か!」という壮大なテーマについて熱弁をふるっている、まさにその時だった。

「わあ…!」

 シルフィが、ふと、壁の一点を指さして、素っ頓狂な声を上げた。

 彼女の視線の先では、鏡の壁の一部分だけが、まるでオーロラのように、七色に、淡く、キラキラと輝いていた。

 それは、ミストが、レイラの氷迷宮に、ほんの遊び心で仕掛けた、ただの「隠し演出」の幻術だった。

「…虹、みたいです」

 シルフィは、その美しい光に完全に心を奪われ、これまで固く握りしめていたジーロスの袖から、思わず手を放してしまった。

 そして、ふらふらと、その光に向かって、歩き出す。

「こら、シルフィ! 何をしている! そっちは壁だぞ! 僕の芸術論の最中に、どこへ行こうというのだ!」

 ジーロスの怒声も、彼女の耳には届いていない。

 彼女は、光る壁に手を伸ばし、その幻の蝶に触れようとした。

 もちろん、そこに物理的な壁はない。

 それは、ミストが仕掛けた、通り抜けられる幻影の壁。

 常人ならば、決して「道」だとは思わない、ありえない選択肢。

 シルフィは、その幻の壁に、何の疑いもなく、その身を預けた。

 そして―――、

「きゃっ!」

 短い悲鳴と共に、彼女の体は、壁の向こう側へと、すっぽりと吸い込まれてしまった。

「なっ!? シルフィ! この、うっかり者めが!」

 ジーロスは、慌てて彼女が消えた壁へと駆け寄った。

 彼が、幻影の壁を通り抜けた先。

 そこに広がっていたのは、もはや無限の鏡像の世界ではなかった。

 静寂に包まれた、小さな円形の部屋。

 その中央にある氷の台座の上には、まるで生きているかのように瑞々しい、一輪の青い氷の薔薇が、神秘的な光を放っていた。

 ゴールだった。


『……あり得ない』

 レイラの、初めて、心の底から動揺した声が響き渡った。

『なぜ…? そこは道として作られてはいない。ただの行き止まりに見せかける、偽りの壁の幻影…。私の計算では、常人がそこにたどり着く確率は、天文学的に低いはず…。美しさも、論理も、そこには存在しない…。なぜ、貴方たちは…?』

 レイラの困惑に、ジーロスもまた、呆然と立ち尽くしていた。

 自らの完璧な美学と芸術論が、全く役に立たなかった。

 そして、この方向音痴で、何も考えていないエルフの、ただの「うっかり」が、この難攻不落の迷宮を、いとも簡単に打ち破ってしまった。

 その、あまりに不条理な現実に、彼のプライドは、一度、木端微塵に砕け散った。

 しかし、彼は、光輝魔術師ジーロス。

 その思考は、常人とは違う。

 砕け散ったプライドの欠片の中から、彼は、新たな「芸術」の可能性を見出した。

「…そうか…! そうだったのか…!」

 彼は、天啓を得たかのように、天を仰いだ。

「僕が間違っていた! 僕は、調和やシンメトリーといった、古典的な美に囚われすぎていたのだ! この迷宮の真のテーマは、そんな陳腐なものではない! …そう、『偶然が生み出す、計算を超えた美』! 予測不能な混沌の中にこそ、真の芸術は宿るのだ! なんという、前衛的(アバンギャルド)な試みだ! ブラボー! ブラボーだ、レイラ!」

 彼は、シルフィのただの失敗を、製作者の深遠な芸術的意図であると、完璧に誤解し、そして絶賛した。

「えへへ…」

 シルフィは、ジーロスに褒められたと勘違いし、照れくさそうに笑った。

 彼女は、自分が何を成し遂げたのか、全く理解していなかった。

 ただ、台座の上の氷の薔薇を手に取り、その冷たい感触と美しさに、うっとりとしている。

「ジーロス様! 綺麗な薔薇です! これが、ご褒美なのでしょうか?」

「そうだとも、シルフィ! これは、我々が『偶然』という名の芸術を理解した証だ!」


 第二の試練は、こうして、あまりにも意外な形でクリアされた。

 美学と論理は、純粋な偶然と天然の前では、全くの無力だった。

 ジーロスは、新たな芸術の扉を開いたことに興奮し、シルフィは、ただ綺麗な花を手に入れて満足げに微笑む。

 混沌が生んだ奇跡の勝利の後、二人の前には、次へと続く、光の扉が静かに開かれていたのだった。

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