第二十六話 怪力と知恵
燃え盛る「火の紋様の扉」を、ギルとテオは同時にくぐり抜けた。
扉の向こう側にあったのは、炎の熱気とは真逆の、肌を刺すような冷気に満ちた、だだっ広い円形の闘技場だった。
壁も、床も、天井も、全てが光を鈍く反射する黒曜石のような氷でできており、その静謐さは、これから始まるであろう死闘の舞台としては、あまりに不気味なほど美しかった。
「ひひひ…! 入り口の炎はハッタリだったってわけか。悪趣味な演出だぜ」
テオは、周囲の壁を指でなぞり、その材質を確かめるようにしながら、商人の目で値踏みする。
「ほう、こいつはただの氷じゃねえな。魔力を加圧して、鋼鉄以上の硬度を持たせてやがる。…こいつを削って売りさばけば、相当な…」
「おお! テオ殿! ご覧なさい!」
テオの金儲けの算段は、ギルの歓喜に満ちた声によって遮られた。
ギルが指さす闘技場の中央には、一体の巨人が鎮座していた。
高さは十メートルを超えるだろうか。
全身が、闘技場の壁と同じ、黒曜石のような氷でできており、その無骨で巨大な体躯は、圧倒的なまでの威圧感を放っている。
氷のゴーレムだ。
「なんと素晴らしい! これぞ、我が剛力の全てをぶつけるに相応しい、最高の相手でありますぞ!」
ギルは、その巨体を前にして、恐怖するどころか、子供のようにはしゃいでいた。
彼にとって、このゴーレムは、姉御の元へ戻る前に片付けるべき、最高の腕試しにしか見えなかった。
その時だった。
ゴーレムの、顔とも呼べないのっぺりとした頭部に、二つの赤い光が灯った。
そして、ミストの魔力によって合成されたであろう、抑揚のない無機質な声が、闘技場全体に響き渡る。
『――挑戦者たちよ。これより、第一の試練を開始する』
声と共に、ゴーレムがゆっくりと立ち上がる。その巨体が動くたびに、大地がビリビリと震えた。
『この試練の名は、「怪力と知恵の天秤」。「力の者」と「知恵の者」の協力なくして、このガーディアンを倒すことは不可能である』
「フン! 協力など不要! 姉御に仇なす輩は、このギルが一人で十分であります!」
ギルは、ルール説明の途中にもかかわらず、その巨体に向かって猛然と突進した。
「喰らうがいい! 姉御に捧げる、我が渾身の一撃をッ!」
彼の拳が、轟音と共にゴーレムの分厚い脚に叩きつけられる。
それは、城壁すらも粉砕するほどの、まさしく必殺の一撃。
しかし―――。
キィン! という甲高い金属音を残し、ギルの拳は弾かれた。
ゴーレムは、微動だにしていない。
「なっ!?」
ギルが驚愕に目を見開いた、その隙を、ゴーレムは見逃さなかった。
振り下ろされた巨大な氷の腕が、ギルの体を蝿でも叩くかのように打ち払う。
凄まじい衝撃と共に、ギルの体は闘技場の壁まで吹き飛ばされ、激突した。
「ぐ…おお…! なかなか、骨のある奴でありますな…!」
壁に叩きつけられながらも、ギルは、むしろ嬉しそうに口の端の血を拭った。
『警告する。ガーディアンへの物理攻撃は、現在、全て無効化されている』
無機質な声が、ルールの続きを告げる。
『ガーディアンの防御を解く条件は、ただ一つ。「知恵の者」が、我が出題する「確率の問い」に正解すること。正解すれば、ガーディアンは十秒間、全ての防御機能を停止する。だが、もし答えを誤れば…ガーディアンの攻撃力は、倍加する』
「確率の問い、だと…?」
テオは、胡散臭い目を細めた。
ミストが仕掛けたゲーム。
その本質が、ようやく見えてきた。
『では、第一問。ここに、三つの宝箱がある。一つの箱には財宝が、残りの二つの箱には、命を奪う罠が仕掛けられている。…さて、「知恵の者」よ。まず、一つの箱を選べ』
ゴーレムの前に、幻影の三つの宝箱が出現する。
テオは、眉間に皺を寄せながら、真ん中の箱を指さした。
「…真ん中だ」
『了解した。では、我は、お前が選ばなかった箱のうち、罠が入っている箱を一つ、開けて見せよう』
ゴーレムが言うと、テオが選ばなかった右側の箱が開き、中から禍々しい毒ガスが噴き出した。
『さて、「知恵の者」よ。最終問題だ。お前は、最初に選んだ真ん中の箱のままにするか? それとも、残された、左の箱に、選択を変えるか? …財宝を手にする確率がより高いのは、どちらの選択か?』
それは、有名な確率論の罠だった。
だが、テオの思考は、数学ではなく、彼が生きる「裏社会の常識」と「商売の鉄則」で組み立てられていた。
(…なるほどな。こいつは、俺を試してやがる。ディーラーが、わざわざ選択を変えるチャンスを与えてくる時ってのは、大抵、最初の選択が当たりだからだ。俺を揺さぶって、当たりを手放させようって魂胆だな。…だが、待てよ。相手は、あのロジック狂いのミストだ。そんな単純な心理トリックを仕掛けてくるか? いや、奴なら、裏の裏をかいて、あえてセオリー通りに…)
テオが思考を巡らせている間にも、時間は過ぎていく。
ゴーレムの赤い目が、再びギルを捉えた。
「テオ殿! 考えるのは結構ですが、少し急いでほしいでありますな!」
ギルは、強化されたゴーレムの、嵐のような連続攻撃を、その剛腕のみで受け止めながら叫んでいた。
一撃一撃が、先ほどとは比較にならない重さで、彼の体を軋ませる。
「姉御への忠誠心の前では、この程度の攻撃、蚊に刺されたようなものでありますがッ!」
(ちっ、面倒な…!)
テオは、舌打ちした。
(確率なんざ、クソくらえだ! こういう時は、度胸とハッタリで乗り切るのが、俺のやり方だ!)
彼は、ディーラーの揺さぶりに乗らない、という、ギャンブラーとしてのプライドを優先した。
「答えは、『変えない』だ! 最初の選択のまま、勝負させてもらうぜ!」
『…………不正解』
無機質な声が、冷たく響いた。
『正解は、「選択を変える」。その場合、財宝を手にする確率は、二倍になる。…罰として、ガーディアンのパワーを、さらに上昇させる』
「な、なんだと!?」
ゴーレムの全身から、青白いオーラが立ち上る。
その巨体は一回り大きくなり、氷の拳には、鋭い氷柱が無数に形成されていく。
「テオ殿ォォオオオ! こいつ、さらに強くなったでありますぞぉおおお!」
ギルの悲鳴に近い雄叫びが、闘技場に木霊した。
『第二問。ここに、イカサマのサイコロがある。六面のうち、三面が『1』、二面が『6』、一面だけが『4』の目となっている。このサイコロを二回振った時、出た目の合計が『7』になる確率は、何パーセントか?』
(くそっ! 今度は純粋な計算問題か!)
テオの額に、脂汗が滲む。
彼は、詐欺は得意だが、純粋な数学は専門外だった。
その時だった。強化され、もはや天変地異のような猛攻を、それでも耐え続けるギルの姿が、彼の目に入った。
(…待てよ。俺は、根本的に、何かを間違えている…?)
彼は、ミストという「ディーラー」の裏をかこうとして失敗した。
なぜだ?
(そうだ…! ミストは、俺のような詐欺師じゃねえ。奴は、人の心を揺さぶる心理トリックなんざ使わねえ、ただの『ロジック狂』だ! 奴が出す問題に、裏も、駆け引きもねえんだ! あるのは、ただ、純粋で、冷徹で、人間味のない『数字』だけだ!)
テオは、己の過ちに気づいた。
これは、ギャンブルではない。
ビジネスでもない。
ただの、計算。
ただの、答え合わせだ。
彼は、頭を切り替えた。
詐欺師の思考を捨て、商売人としての、冷徹な損得勘定の思考に切り替える。
(サイコロを二回振る。組み合わせは、六面×六面で、三十六通り。そのうち、合計が7になる組み合わせは…『1』と『6』、あるいは『6』と『1』のパターンだけだ。『1』の目は三面、『6』の目は二面。つまり、『1と6』が出る組み合わせは、三通り×二通りで六通り。『6と1』も同様に六通り。合計、十二通り。三十六通りのうちの、十二通り。つまり、確率は、三分の一…! 約三十三.三パーセント!)
「答えは、三分の一だ!」
テオが、叫んだ。
『…………正解』
その声と共に、ゴー-レムの動きが、ピタリと止まった。
全身を覆っていた青白いオーラが消え、胸の中央に、脈打つように赤く輝く、巨大な魔力核が露出する。
「今だ、ギル殿ォォオオ!」
「言われるまでもないでありますともッ!」
ギルは、その一瞬を待っていた。
全身の筋肉を極限までしならせ、ありったけの魔力を右拳に集中させる。
「これが、姉御への忠誠の証! 我が魂の叫び!喰らえ! 『聖女様絶対守護・流星剛腕撃』ッ!!」
ギルの、あまりに長すぎる名前の必殺技が、ゴーレムの核に炸裂した。
魔力核は、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ、次の瞬間、木端微塵に砕け散った。
黒曜石の巨体は、その生命を失い、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
静寂が戻った闘技場。
その中央には、おびただしい量の、黒い氷の破片だけが残されていた。
「…ふう。大したことは、ありませんでしたな」
ギルが、満足げに腕を組む。
「ひひひ…! やってくれるじゃねえか、旦那!」
テオは、崩れ落ちたゴーレムの破片を、早速拾い集め始めた。
「こいつは『知恵と怪力の勝利の結晶』だ! 縁起物として、高く売れるぜ!」
「おお! 姉御への、良きお土産になりそうでありますな!」
ギルは、またしてもテオの商魂を忠誠心と誤解し、豪快に笑った。
二人が、言い争いながらも戦利品(という名の商品)を集めていると、闘技場の奥の壁が、静かに光を放ち始めた。
第一の試練は、クリアされた。
怪力と知恵の天秤は、見事に、勝利へと傾いたのだった。




