第二十一話 舞踏会の罠
運命の舞踏会当日、王都ソラリアの空は、まるで巨大な照明のように、青と虹色のオーロラが不気味に渦を巻いていた。
民衆はそれを「英雄たちを祝福する吉兆だ」と無邪気に噂したが、その光が二人の狂気の魔族による悪趣味な舞台照明であることを、アイリスとその仲間たちだけが知っていた。
王城の東棟、アイリス分隊に与えられた居住区画は、決戦前とは思えぬ喧騒に満ちていた。
「ノン! ノン! ノン! 断じてノンだ、アイリス! 戦場に赴くのに、なぜそんな地味なドレスを選ぶのかね!?」
光輝魔術師ジーロスは、アイリスが侍女に用意させた、上品だが装飾の少ない紺色のドレスを見るなり、悲鳴に近い声を上げた。
彼の手には、光魔法で編み込んだ七色の糸で縁取られた、孔雀の羽のように煌びやかなドレスが掲げられている。
「これは僕が君のために、三日三晩徹夜してデザインした芸術品だ! これこそが、主役である君に相応しい! 敵の醜悪な罠を、美の力で浄化するのだ!」
「…ジーロス、お気持ちは嬉しいのですが、これでは動きにくくて…」
「美のためには、多少の犠牲はつきものだよ!」
美学を巡る攻防が繰り広げられる隣の部屋からは、ギギギ…という、まるで金属を無理に引き伸ばすかのような音と、激情のギルの唸り声が聞こえてきていた。
鏡の前で窮屈な礼服に身を包んだ彼は、試しに戦闘時の低い構えを取ろうとして、その動きが途中で硬直した。
体の動きに合わせて伸縮するはずの生地が、彼の常識外れの筋力に全くついてこず、まるで鋼の拘束具のように食い込んでくる。
「くっ…! なんだこの仕立ては! 見た目は飾りばかりで、実用性が皆無ではないか! これでは、いざという時に姉御の前に飛び出し、敵を粉砕することができん!」
彼にとっての「盾」とは、攻撃を受け止めるための装甲ではなく、脅威を排除するための自由な機動力そのものだった。
「動きを封じられた盾など、ただの的だ! ええい、忌々しい!」
苛立ちのあまり、彼は礼服の袖を掴み、自慢の剛力を込めて力任せに引き裂こうとした。
しかし、ビリッという小気味よい音は響かない。
特殊な魔術繊維で織られた生地は、彼の膂力に悲鳴を上げながらも、決して破れることはなかった。
「頑丈なのは結構だが、本末転倒でありますぞ!」
一方、不徳の神官テオは、悪趣味な金色の刺繍が施されたベストを着込み、懐に大量の偽造名刺を忍ばせながら、ほくそ笑んでいた。
「ひひひ…貴族の馬鹿どもに、俺の『聖女様公認・開運壺』を売りつける絶好の機会だ。ついでに、財務大臣の弱みでも握ってやれば、一石二鳥だな」
そんな混沌の中で、シルフィは侍女たちに着せてもらった若草色のドレスの裾をひらひらさせながら、目を輝かせていた。
「わあ…! とっても綺麗です! 舞踏会では、美味しいお菓子がたくさんあると聞きました。迷子にならないように、アイリス様の隣をずっと歩いていれば大丈夫ですよね?」
仲間たちの、あまりにいつも通りの姿に、アイリスは知らず知らずのうちに強張っていた心が、少しだけ和らぐのを感じた。
(…そうですね。私たちは、私たちのやり方で、この戦いに挑むだけです)
彼女は、ジーロスの芸術的なドレスは丁重に断り、結局、動きやすさを重視した紺色のドレスに身を包んだ。
その手には、騎士の象徴である剣の代わりに、優雅な扇子が握られていた。
しかし、その扇子の骨組みには、緊急時に備え、極小の魔力増幅回路が組み込まれている。
これは、ノクトからの、ささやかな贈り物だった。
日没後、アイリス分隊は王城の大広間へと足を踏み入れた。
天井には巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、壁際には宮廷楽団が優雅なワルツを奏でている。
フロアでは、着飾った王侯貴族たちが、グラスを片手に談笑していた。
どこからどう見ても、それは平和を祝う華やかな祝賀の宴だった。
だが、アイリスには、その光景の全てが、精巧に作られた張りぼてのように見えた。
貴族たちの笑顔はどこか虚ろで、楽団の奏でる音楽には、魂が感じられない。
玉座の前では、国王レジスが、熱に浮かされたような表情で彼らを歓迎した。
「おお、よくぞ参られた、英雄たちよ! 今宵は、そなたたちのための宴! 思う存分、楽しんでいくがよい!」
その、普段の彼からは考えられない、芝居がかった口調。
瞳の奥に、虹色の光が微かに揺らめいているのを、アイリスは見逃さなかった。
(…始まります)
彼女が脳内で呟くと、ノクトからの、ノイズ混じりの短い応答が返ってきた。
『…ああ。役者は揃った、か。せいぜい、踊ってやれ。奴らの茶番に、付き合ってやる必要はないがな』
アイリス分隊の五人が、広間の中央へと進み出た、まさにその瞬間だった。
ゴォンッッ!!!
腹の底に響くような、重く、鈍い音と共に、大広間の巨大な扉が、独りでに、そして凄まじい勢いで閉ざされた。
一瞬の静寂。
何事かと貴族たちが扉の方を振り返った、その時、異変は始まった。
「きゃあああああっ!」
誰かの悲鳴を合図にしたかのように、空間そのものが、ぐにゃりと歪み始めたのだ。
豪華絢爛だった壁紙は、まるで濡れた絵の具のようにどろりと溶け落ち、その下から、ミストの幻術による禍々しい幾何学模様が脈動しながら現れる。
天井の巨大なシャンデリアは、レイラの魔力によって、その輝きを冷たい青白い光へと変え、無数の氷の結晶を、ダイヤモンドダストのようにフロアへと降らせ始めた。
宮廷楽団が奏でていた優雅なワルツは、不気味な不協和音へと変わり、やがて、狂気のオペラのような旋律を奏で始める。
「な、なんだこれは!?」
「魔法障壁だ! 完全に閉じ込められたぞ!」
護衛の騎士たちが剣を抜くが、遅すぎた。
レイラの絶対零度の冷気が、フロア全体を支配する。
それは、単なる寒さではなかった。
時間そのものを凍てつかせるかのような、絶対的な支配の力だった。
先ほどまで談笑していた貴族たちが、悲鳴を上げる間もなく、その場に凍りついていく。
踊っていた男女は、優雅なポーズのまま。
グラスを傾けていた大臣は、驚愕の表情のまま。
国王レジスでさえ、玉座に座り、歓迎の笑みを浮かべたまま、その全身を瞬く間に青白い氷の彫像へと変えてしまった。
ほんの数秒前まで生命の熱気に満ちていた大広間は、今や、無数の氷の人形が飾られた、静寂と狂気の美術館へと変貌していた。
その、悪夢のような光景の中心で、武装もせず、ただ立ち尽くしているのは、アイリス分隊の五人だけだった。
「姉御! これは一体…!」
ギルが、敵意を剥き出しにしてアイリスの前に立つ。
ジーロスは扇子で顔を覆い、「なんという醜悪な演出だ…! 美学の欠片もない!」と嘆き、テオは「おいおい、客が全員凍っちまったら、商売にならねえじゃねえか」と悪態をついた。
シルフィは、目の前の信じられない光景に、ただ震えながらアイリスのドレスの裾を掴んでいた。
アイリスは、扇子を強く握りしめ、変貌した広間を冷静に見渡した。
壁は、幻術によって作り出された、果てしない回廊のように見え、床は、薄氷が張った、底なしの湖面のようだった。
ここは、もはや王城の大広間ではない。
レイラの氷魔法と、ミストの幻術魔法。
二人の狂気が完全に融合して作り出した、異質な舞台。
そして、この舞台の観客は、凍りついた哀れな人形たちだけ。
アイリスの脳内に、先ほどまでのノイズが嘘のように消え去った、クリアなノクトの声が響いた。
『フン…ようやく、幕が上がったというわけか。奴ら、この空間を王城から完全に切り離しやがった。おかげで、外部からの余計なノイズが消えた。…上等だ』
その声には、怒りよりも、むしろ好敵手を前にしたゲーマーのような、冷たい闘志が宿っていた。
『新人。聞こえるか。ここからが、本当の闘いだ。奴らの、悪趣味で理不尽な挑戦を、俺たちのルールで、完膚なきまでに叩き潰すぞ』
アイリスは、静かに頷いた。
氷と幻がワルツを踊る、狂気の舞踏会。
その、出口のない舞台で、英雄たちの、そして『神』の、壮大な反撃が、今、始まろうとしていた。




