第二十二話 ルール宣言
静寂が、悪夢のように美しい広間を支配していた。
ほんの数分前まで流れていたはずのワルツも、貴族たちの談笑も、今はどこにもない。
ただ、無数の氷の彫像と化した人々が、永遠の祝宴の一場面を演じ続ける、時が止まった美術館。
その中心で、アイリス分隊の五人は、異質な舞台に取り残された役者のように立ち尽くしていた。
アイリスの脳内に響くノクトの冷徹な宣戦布告は、彼女の心を鋼のように固めさせた。
罠だと分かっていた。
だが、これほどの規模で、これほど悪趣味な舞台が用意されているとは、想像を超えていた。
その、張り詰めた静寂を破ったのは、芝居がかった拍手の音だった。
パチ、パチ、パチ…。
音の主は、大階段の上。
いつの間に現れたのか、一人の青年が、まるで舞台の上の主役のように優雅に佇んでいた。
虹色の光を放つタキシードに身を包み、扇子で口元を隠したその姿は、幻惑のゲームマスター・ミストその人だった。
「ブラボー! 実に素晴らしい! 最高のプレイヤーには、最高の観客と、最高の舞台が必要不可欠! ご覧ください、聖女アイリス様。貴女のために、この私自らが演出した、静謐なる観客たちを!」
ミストが扇子を広げると、凍りついた貴族たちにスポットライトのような幻の光が当たり、その驚愕や恐怖の表情を不気味に照らし出した。
そして、ミストとは対照的に、静謐そのものを体現する存在が、フロアの中央から、まるで氷がせり上がるかのように姿を現した。
青白いドレスを纏い、その美貌に一切の感情を浮かべない氷のストーカー、レイラ。
彼女は、凍てついた国王の氷像の隣に、まるで対となる女王のように静かに座っていた。
「愛しいアイリス様。お気に召していただけましたか? 貴女という至高の芸術品をお迎えするための、ささやかな美術館ですわ。この者たちは、貴女が私のコレクションに加わる、その輝かしい瞬間を永遠に見届ける、幸福な観客なのです」
史上最悪の迷惑コンビが、ついにその姿を現した。
彼らの登場は、この狂気のゲームの、本当の始まりを告げていた。
最初に沈黙を破ったのは、激情のギルだった。
彼は怒りで全身の筋肉を膨張させ、一歩前に踏み出す。
「レイラ! ミスト! 姉御を狙う不埒な輩の正体が、元同僚の貴様らだったとは、情けない限りであります! 貴様らほどの強大な力を持ちながら、やる事が姉御への陰湿な嫌がらせとは! その力、万死に値する使い方でありますぞ!」
「ノン、ノン、ギル! 落ち着きたまえ!」
ジーロスが、ギルの前に扇子を広げて制止する。
彼の目はしかし、怒りよりも、純粋な美的センスへの侮辱に対する憤りに燃えていた。
「見てごらん、この醜悪な舞台装置を! 氷と幻影が、互いの美点を殺し合っている! 冷たい青と熱い虹色の、なんという下品な組み合わせだ! 芸術に対する冒涜だ! 君たちには、真の美とは何かを、僕が教育してあげる必要があるようだね!」
「ひひひ…! おいおい、大した演出じゃねえか」
テオだけが、この絶望的な状況で目を爛々と輝かせていた。
「なあ、あんたら。この茶番が終わったら、この凍った貴族どもから身代金を取るってのはどうだ? 俺が交渉役になってやるぜ。それとも、この劇場ごと見世物小屋にして…」
「あ、あの…パーティーは、もうおしまいなのでしょうか…?」
シルフィが、震える声で、純粋な疑問を口にした。
仲間たちの、あまりにいつも通りで頼もしい(?)反応を聞きながら、アイリスは目の前の二人の魔族を、冷静に見据えた。
(神様。彼らの目的は…)
『ああ。奴らの目的は、お前だ。だが、その手段と結末の認識が、あの二人の間では異なっている。面倒極まりないな』
ノクトの声が、冷静な分析を続ける。
その分析を裏付けるように、ミストが再び口を開いた。
「さて、私の愛すべきライバル、アイリス様。前回のゲームは、少々簡単すぎたようで、私のプライドは深く傷つけられました。ですが、それ故に、私は貴女という究極のプレイヤーの存在を確信したのです。故に、今回のゲームは、貴女のその神がかりの攻略速度を封じる、特別なルールをご用意いたしました」
ミストが指を鳴らすと、広間の空間がさらに歪み、三つの巨大な扉の幻影が出現した。
一つは燃え盛る炎に包まれ、一つは絶対零度の氷に閉ざされ、一つは無限の星空が渦巻いている。
「この舞踏会には、三つの試練を仕掛けさせていただきました。我がロジックの粋を集めた、最高の謎解きです。この三つの試練を乗り越え、この私を満足させることができたなら、この忌まわしき氷結を解き、皆様を解放いたしましょう」
ミストは、うっとりと目を細めた。
「ですが、もし失敗すれば…貴女と、その愉快な仲間たちは、私の次なるゲームを彩る、滑稽な登場人物として、永遠に私の盤上で踊り続けていただくことになります!」
ミストの宣言を引き継ぐように、レイラが静かに立ち上がった。
「ええ。そして、もし私の心が満たされなければ…」
彼女がそっと指を鳴らすと、凍りついた貴族の一人の指先から、美しい氷の蝶が生まれ、ひらひらとアイリスの元へ飛んでくる。
「貴女も、その仲間たちも、そしてここにいる全ての人間も…私の『コレクション』に、新たにお迎えすることになりますわ。永遠に朽ちることのない、完璧な美として、私の氷の城で永遠の時を過ごすのです。…ああ、なんて素晴らしい結末なのでしょう」
それは、あまりにも理不尽で、独善的なルール宣言だった。
勝てば解放。
しかし、負ければ、その魂ごと、彼らの玩具かコレクションにされる。
究極の選択肢を突きつけられ、アイリスは息を呑んだ。だが、彼女の脳内のノクトは、その茶番を鼻で笑っていた。
『フン、三つの試練だと? 芸のない。古典的な三部構成か。あのロジック狂め、自分の土俵に引きずり込めば勝てると思っているらしい。レイラもレイラだ。所有欲を剥き出しにしやがって…反吐が出る』
その声には、怒りよりも、むしろ面倒なゲームの仕様を解析する技術者のような、冷めた響きがあった。
『新人。奴らのルールに乗ってやる必要はない。だが、この空間は奴らの魔力によって完全に支配されている。今は、奴らのルールに従うフリをして、内部からこのクソゲーをハッキングする。それが最短ルートだ』
アイリスは、覚悟を決めた。
彼女は、仲間たちを振り返り、静かに、しかし力強く頷く。
そして、再びミストとレイラに向き直った。
その瞳には、恐怖も、絶望もなかった。
ただ、神の駒として、この理不-尽なゲームをクリアするという、絶対的な意志だけが宿っていた。
「分かりました。その挑戦、お受けいたします」
聖女の凛とした声が、静まり返った氷の舞踏会場に響き渡る。
それは、史上最悪の迷惑コンビが仕掛けた、狂気のゲームの始まりを告げるゴングであり、同時に、ノクトによる、壮大な反撃の狼煙でもあった。
ミストとレイラは、その答えに満足げな笑みを浮かべ、舞台は次なる幕、不穏な前奏曲へと移っていく。




