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夕べはいろんなことがありすぎた。ベッドに入ったものの、体は疲れているのに目が冴えて眠れない。くろは布団の上、優香のおなかのあたりで横になっていた。たまに顔をあげて確認する。目を閉じてしまえば、くろはどちらが背中でどちらがおなかなのかわからない。わからないが、ゆっくりと規則的に上下しているので寝ているんだろう。
呑気なもんだ。
だとしても、たとえくろでも、誰かがいっしょにいるというのは心強いものだ。少しは安心できる。
ぽすんぽすん。
おなかの上で、なにかが跳ねている。規則的な振動で目が覚めた。
「ん――」
重いまぶたをやっと持ち上げると、部屋の中は明るくなっていた。眠れないと言いつつも、いつの間にか寝付いていたようだ。スマホを見ると六時ちょっとすぎだ。起きるには早い。アラームもまだ鳴っていない。
くろが布団の上をぽすんぽすんと跳ねながら、枕元までやって来た。目を開けた優香を見ると、ますます跳ねる。
「……朝早くから元気だね」
くろはニッと笑うと、一層高く跳ねてくるんと宙返りをした。
「おお、すごい……」
まぶたも重いが頭も重い。でも会社には行かなくてはならない。いっそ休みたい。有給取りますとラインを送ってみるか。いやいや、明日のシガラキが恐ろしい。
「おなかがすいたな」
夕べはカップラーメン一個で済ませてしまった。今起きれば時間に余裕があるから、ゆっくりご飯が食べられる。
むくり、と体を起こした。はずみでくろがベッドから転がり落ちた。球体だからおもしろいように転がるのだ。
「あー、ごめーん」
すでに扱いは雑になっている。
カーテンを開ける。明るい。夕べの雨が嘘のように朝から晴天である。朝の陽ざしが目に刺さる。
「……まぶしいなー」
真っ青な空とは裏腹に、優香の気持ちはどんよりしている。
「行きたくない……」
非常に憂鬱だが、社会人としての常識はあるつもりだ。あの新入社員と同レベルには落ちたくない。
「……パンを焼くか」
冷凍庫から食パンを二枚出してトースターに入れる。フライパンを温めて卵をふたつ落とす。じゅう。いい音だ。チン。焼き上がったパンに、マーガリンを塗って、スライスチーズをのせる。さらに両面をしっかりと焼いた目玉焼きをのせる。ケチャップをたらり。
マグカップに牛乳を入れて電子レンジで温める。それにインスタントコーヒーを投入。景品でもらったが、一度も使ったことのないぐい吞みにくろの分を注いでやった。
くろは待ちきれないように、優香の足元をうろうろしている。
「結局二人分だなあ」
くろのトーストは、食べやすいように包丁で四つに切り分けた。それらをローテーブルにならべる。くろはテーブルの上に飛び乗ると、お皿の前にひざをついて(?)すわった。トーストと優香の顔を見比べている。
「どうぞ、召し上がれ」
そう言ったら、ニッと笑ってトーストを手に取った。
あーん。ぱく。たらりと黄味が口の横から流れた。
「あーあー」
ケチャップもつく。優香がそれを拭いてやる。一つを食べ終わると、ぐい吞みを抱えた。優勝力士がお酒を飲む巨大な盃に見える。さぞや重かろうと思ったのに、くろは軽々と持ち上げて、カフェオレをぐびっと飲んだ。
ぱあっと目が輝いた。気に入ったらしい。ぐびぐび。一気に飲み干してぐい吞みを置くと、ニカッと笑った。
かわいいじゃないか。
優香もニカッと笑った。心の中で「エンゲル係数が高くなるなぁ」と思いながら。
ひざのあざが消えるまで、しばらくはパンツだな。愛用のウルトラストレッチなワイドパンツに足を通した。高見えでステキなファストファッションのものだ。あまりに履き心地がいいので、色違いで四本買ってしまった。同じパンツらしきものを履いている人と、結構高い確率ですれ違う。
「あ、あれだな」
おたがいにそう思う。が、素知らぬふりをしてすれ違う。それが礼儀。
金星丘の擦り傷はもう乾いていた。今日中にかさぶたになるだろう。金運が落ちたかもしれない。恐ろしい。
化粧をすませ、カバンを持つ。きのうドロドロになったカバンは、もう捨てよう。どうせ安物だ。気分も悪いし。泥まみれの中身は拭きつつ別のカバンに入れ替えた。
化粧ポーチは後で洗おう。お気に入りのブランドものだ。すっかりきれいにはならないかもしれないが、できるだけ洗ってみよう。今日はフリーザーバッグで代用だ。返す返すも行方不明のリップが惜しい。
ハンカチとティッシュはゴミ箱へ。財布はウェットティッシュで拭いたら、なんとかきれいになった。
靴は泥まみれで傷だらけ。これも後で拭いてみよう。安物だから捨ててもいいんだけど、でもザビエルのせいで捨てるのはなんだか悔しい。できるだけ抵抗してやる。
「わたし、会社に行ってくるから待っててね」
くろは見送りのつもりか、玄関に立っている。テーブルの上には水を入れたぐい吞みと、お皿に入れた山盛りのスナック菓子を置いた。ごはん兼おやつだ。足りるかどうかはわからないが。
「帰ってきたらご飯を作るから、それまでおとなしくしていてね」
くろは、こっくりとうなずいた。
ほんとうにわかったのかな? いろいろと不安ではあったけれど、優香は部屋を出て鍵を閉めた。
マンションを出て先にコンビニが見えてきて、はっとした。
幽霊! 幽霊がいるんじゃない⁉
夕べの恐怖を思い出して足が止まったけれど、駅へ向かう人々は淀みなく進んで行く。コンビニにもいつも通りに人が出入りしている。
……幽霊いないのかな? 朝だから? 夜しか出ないのか? 幽霊だもんな。
優香はおそるおそる歩いていく。ちょうどよくやって来た二人の女子高生に隠れるようにコンビニの前に差し掛かった。怖くて顔をあげられない。
女子高生A:えー! 提出今日だった⁉
女子高生B:今日だよぉ。やってないのー?
女子高生A:忘れてたー。ヤバーい(笑)。
女子高生B:ヤバーい(笑)。きゃはは。
さすが女子高生。朝からテンションマックス。これだけのエネルギーがあれば、幽霊もはじけ飛ぶだろう。
……何事もなく通り過ぎた。よかった。優香は胸をなでおろした。ありがとう、女子高生。提出物の遅れは、ちゃんと先生に説明してあやまった方がいいと思うよ。
優香は振り返らずに小走りに駅へと向かった。さいわいザビエルを見かけることもなく、改札を抜けホームへと上がった。
帰りはどうしよう。都合よく女子高生がいてくれるといいのだが。
「おはようございます」
会社に着いた優香の声は消え入るようだ。誰も返事をしない。声が大きかろうが小さかろうが、誰も返事をしない。いつもだ。だったらあいさつなんかいらないだろう。そう思う。が、しなければしないで「あいさつもしない」と言われる。そして「これだからZ世代は」と続く。うるさいわ、ゆとりにバブル。
なにからなにまで理不尽な会社だ。




