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今日は朝から悪かった。
まず寝坊した。ちょっとやそっとの寝坊じゃなく、今すぐ家を出ないと遅刻だというくらいの寝坊だ。
急いで着替えて、顔はウェットティッシュで拭って、マウスウォッシュで口を漱いで、バッグを持って家を飛び出した。優香の部屋は七階建てマンションの四階。こんな時に限ってエレベーターが来ない。
足踏みするほどイラつきながら待って、やっと来たエレベーターは上行き。マジか! とうとう待ちきれなくて階段を駆け下りた。一階に着いたらエレベーターも到着するという奇怪な現象。
気のせい、気のせいと駅まで走った。徒歩七分。走って四分。さいわい途中に大きな交差点はない。小さい交差点なら車が来なければ、渡ってOKというマイルール(いやアウト)。
なんとか間に合うかも、と期待を持ってホームに駆け上がれば、遅延のアナウンス。マジか。
ああもう、降りたらまた走らなければ。そんなことを思っていたら、遅延のせいか、いつもより混雑がひどかった。
会社の最寄り駅に着いた時にはもう疲労困憊だった。それでもがんばって走ったのに、結局遅刻。化粧をする間もなく「シガラキ」に説教された。
「シガラキ」とは優香の上司である。本当の名前は「白石」。ぽっちゃりした中年。生え際がだいぶ後退していて、おでこと頭皮の境目がうやむやだ。その境界不明なおでこは油でてかてか。おなかのぽっこり具合があのたぬきの置物に似ているので、個人的に「シガラキ」と呼んでいる。韻も踏んでいるし、よくできたあだ名だと思う。
こいつはパワハラ、セクハラ、モラハラなんでも取りそろえたハラスメントのデパート。
「余裕をもって、家を出たら済むことやんか!」
ムカつく関西弁。
「どうせゲームやら動画やらで夜更かししたんやろ」
子どもじゃねえわ。
くどくどと十分ほど説教を受けて自席へもどると、今度は隣のアラサー女子社員の及川がにやにやする。
「これだからZ世代は」
うっさいわ。だまれゆとり世代。
「さっさと仕事しい! 遅れた分は残業しいや!」
向こうでシガラキが叫んだ。もっとだまれ、バブル世代。なんかこいつらって、いまだに自分がイケてると思っている節がある。グイグイ行けば行くほど、イケてると思っている。
時代はすでに氷河期だというのに、あの熱狂を忘れられないのだ。パリに行ってエルメスの靴を買った話なんて、何回聞かされたかわからない。
「今の若いもんは、安っい服しか買わんからあんのや。高いもん持っとたら、高い人間になるんや」
この給料じゃ、安っい服しか買えんのや。暑苦しい。
「酒はシーバスリーガルしか飲まん」
シーバスリーガルってなに。検索してみた。
高級スコッチウィスキー。スコッチウィスキーってなに。ハイボールしか知らんし。もういいや、どうでも。
もちろん、口には出さない。出せない。心の奥で噛みしめる。
社内はギスギス。会話も最低限。定時でいったんタイムカードを押して、残業をする。それが当たり前。当然友だちなんていやしない。
そんなブラック企業。
好きで入ったわけじゃない。
なかなか内定がもらえなくて、焦りまくったところで、やっともらえた会社がここだった。選ぶ余地もなく入社したらこんな会社。
へっ。
自嘲的に笑うしかない。
やっと説教が終わったと思ったら、今度は今年入社した後輩からラインが来た。
「今日は有給取ります」
はあ? これはどういう意味かな?
この子、まだ有給ついていないはずだけど。そして有給は前もって申請しないと取れないんだけど。
電話を掛けたけれど、出やしない。
時間をおいて、もう一度。やっぱり出ない。これは出ないつもりだ。
困るなぁ。
しかたなく、もう一度シガラキのところへ行く。
「そんなアホな話あるか! つながるまで電話せえ!」
また怒鳴られた。わたし悪くないのに。どんどんテンションが落ちていく。
業務の合間に何度かかけたが、最後まで電話は繋がらなかった。
「あいつ、出たか?」
帰り際にシガラキが言った。
「出ませーん」
「アホちゃうか!」
誰がだ。わたしじゃないよな。
「明日覚えとけよ」
わたしじゃないよな。となりで及川がニヤニヤしている。去れ! ゆとり世代!
とどめはとつげきおじさんだった。
時刻は十時。疲れ果ててやっと最寄り駅で降りた。改札を抜けたとたんだった。
どんっ‼
後ろから肩に強い衝撃を受けて、つんのめった。そして耐えきれずに、スライディングするようにズシャアッと床に這いつくばってしまった。トートバッグは肩からはずれて、床に投げ出された。中身をぶちまけた。
周辺から「きゃあ」とか「うわっ」とか声が上がった。
な、なにが起きた?
這いつくばったまま呆然としていると、上から舌打が聞こえた。
「じゃまだよ」
顔のすぐ横を黒い革靴が通り過ぎた。踏まれるかと思った。
カツーン。リップが誰かに蹴とばされて、どこかへ滑っていった。行きかうたくさんの靴に紛れて、どこに行ったのかもうわからない。
買ったばかりだったのに。
「だいじょうぶですか⁉」
飛んできたのは駅員さんだった。腕を掴んで引っ張り上げてくれた。
「ケガは? 痛いところはありますか?」
「いえ、だいじょうです」
とっさにそう答えてしまったけれど、ショックのあまり痛いとか痛くないとか全然わからなかった。駅員さんは、急いで散らかったバッグの中身をかき集めてくれた。優香もあわててそれらをバッグに詰めた。
なにもかもがどろどろだ。
「おそらくぶつかりおじさんだと思います」
壁際へ移動して、駅員さんはそう言った。
マジで? ぶつかりおじさんって、あの巷で噂のぶつかりおじさん? ここにもいたんだ。
「どんな人か見ましたか?」
聞かれてもわからない。いや、一瞬だけ後ろ姿を見た。たぶんあれがぶつかりおじさんだ。通り過ぎてから振り返って、無様に這いつくばる優香を見てにやっと笑ったのだ。
「白いシャツに黒いスラックスで、黒いカバンを持っていて。小太りで頭がちょっと薄い……。ザビエル……」
よくいる中年の会社員。特徴と言えばザビエル頭しかない。
「ああ、なるほど」
なぜかザビエルに反応した駅員さん。
「実は何件か報告がありまして。もしかしたら同じ人かもしれません」
マジか。ザビエル常習犯か。こんな土砂降りの日にやらなくてもいいのに。
よりにもよって、こんなについていない日に。
名前と連絡先を書いて駅を出た。「もしケガがあったら警察に被害届を出した方がいいですよ」と駅員は言った。とりあえず「はい」と返事をしておいた。
雨は小降りにはなっていたけれど、まだ降り続いていた。折り畳みの傘がバッグに入っていたはずだけど、出す気にもならなかった。すでに服もバッグも濡れて泥まみれだ。今さらである。
みんな舗装された道路を歩いているはずなのに、駅の床ってこんなにドロドロなんだ。へんなの。
走る気にもならない。
重い足を引きずって、のろのろと歩いた。
突き飛ばされたこと、駅の床に這いつくばるように転んだこと、舌打ちされたこと、泥だらけになったこと、リップを失くしたこと。
ひとつひとつは、大したことじゃない。いや、大したことではあるけれども、なんとか乗り切れそうなことだ。ただフルコンボのダメージはどん底へ突き落すのに十分だった。




