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ほんとうにひどい一日だった。
午後九時。残業を終えてようやく家路につき、駅を出たときには、さすがに雨は小降りになっていた。電車の中でゲリラ豪雨が始まった時には、どうなることかと思った。
最寄り駅から自宅マンションまで徒歩七分。それがとてつもなく長いと感じた。目には見えないなにかが肩に乗っている。ずうーんと重いなにかが。肩が落ちて、背中が丸まる。足も重い。ずずっ、ずずっと持ちあがらない足を引きずる。スライムの中を漕ぐようだ。
つま先が傷になるな、と思ったけれど、疲れ果てた体に憔悴しきった心では、足は一ミリも上がらなかった。
ぬれた路面に車のライトが反射して、やたらと眩しい。
駅とマンションのちょうど中間地点に便利なコンビニがある。便利だからコンビニという。だがこのコンビニは、そんな一言ではすまされない。超便利。電車の中で「今夜はなにを食べよう」とか「アイスも買っちゃおうかな」とか「いっそ缶チューハイも買うか」とか、考える。
その考えが実現できるのがこのコンビニだ。
ドアが開いた瞬間の、歓迎のチャイムは至上の音楽。明るい店内は天上の楽園。夢の世界。駅から自宅までの帰路の線上、一歩も外れることなく実現できるシャングリラ。
残業と何かしらのハラスメントでささくれだった心が、ちょっとだけ凪ぐ。このコンビニがなかったら、心はささくれたまま明日に持ち越す。
もはや心の拠りどころ、と言っても過言ではない。
ところが今日はもうそんな気持ちすら、なくなっていた。
もう限界。もういや。
じわじわと涙が浮かんでくる。
サイテーだ。どん底だ。
いや優香の人生は、あの日からずっとどん底なのだが。その中でもさらにどん底だ。
空腹なんて感じない。なにか口に入れたら吐きそう。
会社なんかもう辞めたい。
もういや。
こんな生活なら死んだ方がマシ。
ぽたりと落ちたはずの涙は、歩道の水たまりに呑まれて消えた。
道路を照らすコンビニの灯を踏んだ時だった。虚ろな優香の目の前に、ふよふよとなにかが漂って来た。
なんだ?
優香は足を止めた。
それは、優香の目の前でピタッと止まった。
ぎゅっと眉間にシワを寄せて、じいーっと見つめる。
黒い毛玉だ。ふわふわもふもふ。それが宙に浮いている。
ええ?
乾いていたらふわふわなんだろうが、今はちょっと湿って、ボリュームダウンしている。そこから紐が四本、だらりと下がっている。
これ、手と足か?
まっくろくろすけかな?
そいつが、ふいにくるっと向きを変えた。
「うお⁉」
思わずのけぞった。
目がある! やっぱりまっくろくろすけだ! 優香と目が合ったら、すうーと半眼になり次の瞬間、ぼたっと地面に落ちた。
「あ」
これは、どうするべきだろう。優香は判断に迷って、そいつを見下ろした。
くろすけは地面からちらりと優香を見上げる。目が合うとまぶたを閉じる。二回続いたら偶然じゃないだろう。これはわざとだ。まるで気を引こうとしているみたいだ。
「なに?」
その態度にイラッとする。こっちは疲れ果てて、どん底なんだよ。他人のことなんか、気にかけてられない。……他人? いやいや、人じゃないな?
しばらく立ったまま様子を見ていると、そいつはパペット〇ン〇ンみたいな目に、うるうると涙をため始めた。
「泣き落としか⁉」
無視して立ち去ってもいいのだがなんにしろ、ふわふわの丸いものといったらかわいいものだ。しかもテニスボール大。ちょうど手のひらに収まる。〇ン〇ンみたいな目玉もちょっとかわいい。かわいたらふわふわになりそうだし。カバンにぶら下げたらかわいかろう。
えー、どうしよう。とりあえず一旦しゃがんだ。くろすけはうるうるの目でジーッと見上げてくる。
だいたいこれは生き物なのか? どうやら自我があるらしい。欲求もあるらしい。だとしたらやっぱり生き物か。
動物? まっくろくろすけは妖怪だったか?
濡れた地面の上で毛が泥水を吸っている。
「汚くなるよ」
そうしたらくろすけは助けを求めるように、ふるふると震える手を差し伸べたのだ。
えー。
そんなことをされたら、助けないわけにいかないじゃん。どうする当てもなかったが、優香は頭頂部(?)の毛をつまんで持ち上げた。
くろすけの目が、キュッと三日月型になった。
わ、笑った?
くろすけはうれしそうに、びよんびよんと伸びたり縮んだりした。
……う、うう。
突然頭の上からうめき声が聞こえた。おなかが空いたときに出る「ううー」とはあきらかに違う、切羽詰まったうめき声だ。
優香は、ぎょっとして顔を上げた。
「ひっ」
そこには血みどろの男が立っていた。男ものの白いシャツに黒いズボン。それを着ていなかったら、性別がわからなかったかもしれない。それくらいひどい状態だった。
シャツは真っ赤な血や、黒いなにかのシミでズタズタ。ズボンも裂けたりちぎれたりしてズタズタ。頭の右上が潰れて、目がなくなっている。そこからどろりとはみ出ているのはまさか脳みそ⁉ 張り付いた金髪が悲惨。金髪とは言っても欧米人の金髪じゃない。染めたヤツだ。しかも根本は黒い。いわゆるプリン頭。耳にはいかつめのピアス。ヤ、ヤンキーかな?
腕も脚もおかしな方向に曲がっている。
ぎょろ。
残った左目が、優香を見た。
「ひいいぃぃっ!」
優香は飛び上がると、くろすけをつまんだまま走り出した。
火事場のバカ力とでもいうのか、さっきまで一ミリも足が上がらないなんて言っていたのが嘘のようなダッシュだ。
ようやくマンションに到着する。怖くて後ろが見られない。カバンを開けてくろすけを突っ込み、内ポケットから鍵を出した。オートロックの鍵穴に鍵を刺そうと試みるも、ありえないほど手が震えてうまく刺せない。
「はっ、はっ、はやくっ! はやくしないとっ!」
焦れば焦るほどうまくいかない。
お、追いつかれるっ!
偶然か幸運か、鍵が鍵穴にかちりとはまった。「やややった!」ドアを押して隙間から体を滑り込ませ、エレベーターへと走った。
エレベーターの▲ボタンを連打し、乗ったら乗ったで閉じるボタンを連打し、ドアが開いたら自分の部屋までダッシュした。
「か、かぎ! かぎっ!」
握ったままの鍵を鍵穴へと差し込もうとするけれども、ぶるぶると震えて思うように刺さらない。焦る。
優香が降りていったん下がっていったエレベーターが、また上がってきた。
「き、来たっ! や、やばい! はやくっ」
エレベーターが開いた。ひたひたひた。開いたエレベーターからなにかがやってくる気配がする。
ひっひっひっ。息が詰まる。早く早く。恐ろしくてそちらを見られない。
やっとかぎが刺さった。回す。開ける。優香は中に飛び込むと、力いっぱいドアを引く。なんで、このドアは閉まるのが遅いんだ! ばたんってならないようにだよ! わかってはいるが。
がちゃり。やっと閉まって、それからかぎとチェーンを掛けた。
「……助かった」
エレベーターから降りてきたのが誰だったのかはわからない。アレが追いかけてきたのか、住人だったのか。
とにもかくにも、優香は玄関先でへたり込んでしまったのだった。




