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定時に会社を出ると、優香はまっすぐにここへやって来た。
喫茶ウィーンである。
いつものスーパーの脇の路地を進んで行く。路地があるのは知っていたけれど、道を塞ぐように大量の自転車がならんでいるから行ったことはなかった。先には小さなスナックや小料理屋が数軒ならんでいた。優香とはあまり縁のなさそうな店である。
六時そこそこではあるが、店の看板にはライトが付き、常連風の老人がその中に入っていく。
「あらー、ひでさんいらっしゃーい」
ドアの隙間から派手な声が聞こえた。
うーん、入りたくはないな。お世辞にもきれいとは言い難い。店先に積まれたビールケース。看板は欠けて、ドアの塗装も剥げている。そのドアの取っ手、拭いたことあるんですかね。
魚を焼く匂いとたばこの匂いが混じって漂う。
駅前は古い商店街ではあるが、この一帯は殊更昭和感があふれる。
その一角に「喫茶ウィーン」はあった。
「たしかに喫茶店だな。カフェではない」
優香は狭い道路に立って、その外観を眺めた。
アイボリーのモルタルの外壁。木製のドアには、でこぼこガラスの小窓付き。コイヤーのドアマット。喫茶ウィーンの置き型看板。電気がつくヤツ。きっとホットケーキがあるに違いない。パンケーキじゃなくてホットケーキ。
それでも外壁は鮮やかで汚れていないし、ドアも剥げていない。窓はきれいに拭いてある、店の前にゴミはなく、いたって清潔でレトロおしゃれなお店である。
「ここなら、入ってもだいじょうぶそう」
こういう喫茶店に入ったことはないが、少なくとも酔っぱらいはいないはず。
ぼすっとカバンが音を立てた。
「もうちょっと待ってね」
優香はそう声をかけて、ぽんぽんと宥めるようにカバンを叩いた。あれからくろはカバンにしまってある。おそろしくなって、放し飼いはできなかった。
ほんとうは、誰にも頼らずひっそりとくろを飼い(?)たかった。でもこのまま放置したら、今度こそ死人が出る。優香が物騒なことを考えなければいいのだが、それも確実じゃないと今日発覚してしまった。
つい、うっかり「死ねよ」なんて言ってしまう自分の口の悪さが恨めしい。
くわえて、ほかに頼るべき人がいない。
しかたなく、ほんとうにしかたなく、藁にも縋る思いで優香はここにやって来たのだ。
これ以上犠牲者を出すわけにはいかないし、くろの手を汚したくもない。はたして、この喫茶店がどう助けになるのかわからないが。
スナックや小料理屋にはどんどん人が入っていく。見かけによらず繁盛しているようだ。すでに酔っぱらったようなじいさんが道路に立つ優香をいぶかし気に見ていく。
「ねえちゃん、遠慮なく入れよ」
そう言って手を伸ばしてきた。
「いえー、だいじょぶですぅ」
優香はあわてて喫茶ウィーンのドアに手を掛けた。
カランコロン。
軽快なドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
イケメン氏だった。
「あ、やっぱり来たんだね」
やっぱり、なんて言われるのは見透かされたようで非常に心外だが、心配というか困りごとがあるのは事実なので、ここはぐっとこらえた。
イケメン氏はギャルソンエプロンもよく似合う。ただの白いTシャツすら高級感が漂う。さすが絶世のイケメン。
「早めに来てくれてよかった。どうぞすわって」
そう言うと彼は、カウンター席に案内してくれた。カウンターの端っこにはハンチングをかぶったおじいちゃんが一人座っていて、新聞を読んでいた。目の前にはコーヒーカップ。他にはテーブル席が三つのこじんまりとしたお店である。
店内はコーヒーのいい香りで満ちていた。優香は思わず息を吸い込んだ。
「こちらが例のお嬢さんか?」
イケメン氏とは別の低い声がして、優香はビクッと跳ねた。カウンターの中ではゴリマッチョがコーヒーカップを拭き上げていた。
背も高くてムッキムキである。威圧感がハンパない。白いTシャツがパンパンだ。長い髪をオールバックにして後ろで一括り。シルバーのいかついピアス。
優男のイケメン氏とは正反対のタイプだ。
「そうだよ。アレも連れているね」
また「アレ」って言う。優香はカウンターのイスに座りながら、ムッとした。くろはピクリとも動かない。
「コーヒーでいいかな。ココアがいい? パフェもできるけど」
マッチョ氏が話かけた。どうやら優香とくろのことは話が通っているようだ。店に入った時から、コーヒーの香りが鼻をくすぐっている。こんな喫茶店なんて初めて入ったし、もちろんカウンターに座るのも初めてだ。
大勢の人がざわざわするコーヒーチェーンではなく、こんな落ち着いた雰囲気でぜひともコーヒーを飲んでみたい。
「コーヒーをください」
マッチョ氏がニコリとほほ笑んだ。いかつさが薄らいで、気安さが増した。
「ならうちのブレンドをぜひ飲んでみて。特製だぜ」
「あ、はい。お願いします」
マッチョ氏が鮮やかな手つきでドリッパーにお湯を注ぐ。新たなコーヒーの香りが湧きたってくる。
いっぱいいっぱいだった気持ちが、ちょっと落ち着いてきた。
「はい、どうぞ。ブレンドとチーズケーキだ」
チーズケーキは頼んでいないのだが。おいしそうだけれども。優香はマッチョ氏を覗き見た。
「光明さんのお手製なんだよ。コーヒーによく合うから食べてごらん」
イケメン氏が横に座って言った。コウメイさんとは、このマッチョ氏のことですか。そうですか。ならいただきましょう。てか、なんで隣に座りましたか。
なめらかで一切の色ムラのない焼き色。切り口もまたなめらか。一流パティシエが作ったと言っても過言ではない出来のチーズケーキ。
カップは華奢で繊細な花柄。よくわからないけれど、ウェッジウッドとかジノリとかそういうのだろう。優香はカップを手に取って、香りを吸い込んだ。いい香りだ。心が安らぐ。くろをもふもふするのと同じくらい安らぐ。
一口すする。
「はあー」
思わずため息が出た。沁みる。胃にも頭にも心にも。
「おいしいです」
「だろ?」
マッチョ氏がパチンとウィンクをした。
ウィンクなんて初めてされた。




