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――暴走しないように気をつけてね。
イケメン氏の言葉がよみがえる。あの人は、くろの正体を知っていて、この先何が起きるのかわかっていたんだろうか。
「かわったもの」って言っていたし。
今さらながらに、この子はいったい何者なんだろうと思う。仕草がかわいかったから追求しなかったけれど。っていうか、いっしょにいてくれるのがなんか楽しかった。だからあえて目をむけなかった。
言葉が通じているのかは不明。でも優香が不愉快に思ったことに対して、仕返し的なことをしてくれる。
モンスター佐藤は、会社を辞めればいいのにと思った。そして辞めた。
ザビエルは、無様に転べばいいと思った。そして転んだ。女子大生にのしかかるというおまけ付きで。
二人ともちょっと恥をかいたくらいで、ケガをしたわけじゃない。だから笑って済ませられた。
…………。
待てよ? 佐藤は会社を辞めたな。こっちからすると辞めてくれて助かったのだが、佐藤本人はどうなんだろう。
もしかしたら、これから常識が身について社会人としてやっていけたのかもしれない。その芽を摘んだことになるのか?
うーん、アレが常識的になるとは思えないが。今じゃなくてもいずれ辞めたかもしれないしな。
ザビエルはあれからどうなったのだろう。そういえば見かけていない。
痴漢として逮捕されたりしたのかな。そうしたら社会的終了だな。それは大変なことだ。家族いるんだろうし。子どもとか。
父親が痴漢で逮捕。
子どもも社会的終了か? 離婚になるかもしれない。会社もクビになるかもしれない。あのときは「ざまあ」と思って笑っていたが、笑い事じゃないな。いやいや。そもそもぶつかりおじさんなのが悪いのだ。被害者は何人もいる。どっちで逮捕されても、やはり社会的女性の敵であることには間違いない。だったら仕方のないことなのか?
…………そんな重大なことをくろがしちゃってよかったのか?
わたしのせいか?
ぞわぞわと、寒気が背筋を這い上がってきた。
翌日社長から報告があった。
白石さんは一命をとりとめた。
――一命をとりとめた――。
ドラマでしか聞いたことのないセリフ。シガラキがそんな状態になるなんて。
わたしが「死ねばいいのに」と思ったから?
くろは、無邪気に跳ねながら部屋中を飛び回っている。この子にはきっと人間の善悪の概念がないんだ。優香が辞めればいいと思えば、辞めさせる。転べばいいと思えば転ばせ、死ねばいいと思えば死なせる。
きっとそうなんだ。優香の一存で、なんでもしてしまう。迂闊なことは言えない。こわい。
かといって、あの胡散臭いイケメン氏の世話になる気も起きない。自分がなにも思わなければいいのだ。そうだ。そうすればいい。
木曜金曜となるべく人と接触しないように、心を荒げることがないように、会社の中で気配を消してひっそりと過ごし、土日も外出せずに家にこもってやり過ごした。
別にむずかしいことじゃない。いつものことだ。撮りためたドラマを見たり、本を読んだり、ゲームをしたり、スーパーへ買い出しに行ったり。たまに映画館や展覧会に行ったり、服やコスメを買いに行ったり。
会社が終わってからだって、誰かとごはんに行ったりはしない。まっすぐ帰る。残業が多いこの会社はちょうどよかった。
誰ともかかわらない。誰も信用しない。それが優香のスタンス。
高校以来友だちも作らず、ずっと一人で過ごしてきた。それでいいんだ。下手に仲良くなると裏切られるから。だったらはじめから一人の方がいい。
そう思っていたのだが、思いがけなくくろがやって来て、ぼっちが解消された。独り言に返事をするように、ニカッと笑う。肩に乗る。ひざに乗る。話をしなくても心地よかった。平気なふりをしていたけれど、案外寂しかったのだと痛感させられた。
別に放り出そうと思えばできたのだが、できそうもなかった。
たぶんくろは、どこでも生きていけるんだと思う。でも優香は認めたくなかった。だから、なにくれとなく世話を焼いたのだ。
ここが一番いいよー。ごはんもあるし、おふろも入れるしベッドもあるからねー。ここを出て行ったらごはんがないかもよー。
だから、ここにいようねー。
そんな風に言い含めて。
そして月曜日。いつも通り出勤した。何事もなく午前が終わり、夕方近くなったころだった。
「立花さん、あのさぁ」
話しかけてきたのは、優香の先輩社員だ。
「これ、金曜日までに先方に送っておいてって言わなかった?」
「聞いてません。わたしじゃありません」
たしかにそう。絶対にそう。
「ええ? 言ったよな。おれ、絶対に言ったよ?」
はい出た。言った言わない論争。不毛の極みだ。
この先輩、シガラキの後を引き継いだように、無理難題を突き付けてくる。まだ三十になっていないはずだが、思考がバブル。及川にすらため息を吐かせるというゴリゴリの体育会系。やる気。根性。気合。
先輩には決して口答えをせず、かわりに後輩には口答えを許さない。
だいたい、この案件だって優香の担当じゃないと言っているのに、しつこく難癖をつけてくる。
「他の人じゃないですか」
「はあ? 都合悪くなると逃げるのかよ」
もう、ただのウザ絡みである。思わずため息が漏れた。
「おいおい、ちゃんと話を聞けよ。白石さんがいないからって、たるみすぎじゃね」
となりで及川が「ヤバ。白石二号だ」とつぶやいた。優香にも堪忍袋というものがある。ましてや先週から気持ちが荒ぶらないように、押し殺してきたのである。
ぶつっ。緒が切れる音がした。
そもそも先週の金曜日の話を、なんで今頃するんだ。するならもっと早くしろよ。そんで担当はわたしじゃない。自分が誰に頼んだのかちゃんと覚えてろよ。
死ねや、クソボケが。
……はっ! しまった! 言ってしまった!
くろはっ?
部屋の端っこから嬉々として、ぴょーんと飛んでくるのが見えた。
ヤバい! 止めないと! 高速スピンを始める前に。
当の先輩社員は、ぶつぶつと文句を言いながら自分の席へと戻っていく。その頭の上にくろが到達した。
今だっ!
優香はジャンプした。先輩に体当たりをしながらくろをむんずと掴んだ。やった! 成功!
「うわ! なに⁉」
彼は突撃されてたたらを踏んだ。
「すいませーん。ちょっとゴミがー」
などとごまかしながら、優香はくろを掴んだままトイレへと走った。おい、ちょっと! なんて背後で聞こえたが無視した。命を救ってやったのだからありがたく思え。いや、命の危機を招いたのはわたしなのだが。もとはと言えば、あんたが絡んだのが悪いんだ。シガラキなんかのマネをしないほうがいいと思う。
トイレに駆け込むと、握った手をそっと開いた。くろは手のひらの上で目をまわしていた。
「ごめんね、くろちゃん。でも、さっきのは嘘だから。死ねとか間違っていっちゃったのだから、実行しなくていいからね。ね!」
やがてシャキッと起き上がったくろは、任務遂行とばかりにまたしても飛んで行こうとする。
「ちがう! ちがうから! 行かなくていいって!」
言い聞かせるように、くろをぎゅっと握る。くろはきょとんとしていた。しばらく握っていたら、あきらめたようにおとなしくなった。
よかった。
でも、絶対にわかっていない。




