第9話 玲子の異変
玲子先輩と私が仕上げた絵は、土曜日の夕方には緋色舎の食堂に飾られていた。
玲子先輩と相談して決めたのだ。
額ごと壁に飾ってしまえば、上下を逆さまに見てしまうような粗相も避けられる。
緋色舎の食堂を選んだのは、私の提案だった。
玲子先輩と私が一緒に作り上げた、思い入れのある絵だ。
2人に所縁のある場所は、緋色舎以外に考えられなかった。
中でも食堂がよいと思った。
私たちが毎日顔を合わせる場所だからだ。
緋色舎の管理人であるご夫婦も、素晴らしい絵だと褒めてくれて、食堂に飾ることを快く許してくれた。
夕食の前、管理人のご婦人から玲子先輩が呼ばれたのには気づいていた。
玲子先輩宛ての電話を取り次いだようだった。
ご実家からだろうか。
それとも――
その用件を、私が知ることはなかった。
ただ、玲子先輩が食事の後で、私にこう短く告げただけだった。
「明日も半日ほど留守にします。夕方には戻れると思いますので――」
それだけだった。
土曜日の午後から日曜日の夕方にかけては、実家へ帰る緋色舎の学生も少なくない。
現に、同級生の森裕子は帰省中で不在だった。
私は、入学以来、一度も実家へは帰っていない。
緋色舎での生活が始まる前日、父から「こちらから連絡する以外は、戻ってくるな」と言われたからだ。
だから、帰りたくても帰れない。
本当は帰りたい。
母や妹、弟たちの顔を見てみたい。
そう思ったことは、何度もあった。
けれど、時間が経つうちに、そんな思いも少しずつ遠のいていった。
日曜日は絵を描いて過ごすか、舎に残った学生たちとお喋りをするか、あるいは連れ立って市街地まで出かけるか。
いつの間にか、それが私の過ごし方になっていた。
*
日曜日――
緋色舎に残っていたのは、私の他に、同級生の笹田良子と、3回生の坂上世津子先輩だけだった。
この日は、いつもより残っている学生が少ないように感じた。
朝食の時、私と良子は世津子先輩から誘われた。
「もしお時間がおありでしたら、お茶をご一緒しませんか?」
私も良子も、特に予定はなかった。
それで、世津子先輩のお誘いに応じることにした。
玲子先輩と親しくなる前は、この世津子先輩にいちばん親しみを感じていた。
玲子先輩を少し苦手にしている良子も、世津子先輩には気を許しているようだった。
午前10時に、私たちは再び舎の食堂に集まった。
食堂には、紅茶の葉が入った小壜が用意してある。
奥のコンロで湯を沸かした後、茶葉を入れたそれぞれのカップに注いで、テーブルまで運ぶ。
テーブルの上には、緋色舎のご婦人が洋物の菓子を籠の中に入れて置いてくれている。
しばしば間食に来る学生がいるのか、量が継ぎ足されるたびに、その種類は毎回少しずつ違っていた。
「それにしても、見事だわ。初音さん、あなた、絵の才能がおありになるわ」
世津子先輩が紅茶の入ったカップを持ち上げながら、壁に掛かっている絵の方へ目をやって言った。
私は顔を赤らめ、恐縮した口調で答えた。
「いえ……玲子先輩の下絵が素晴らしかっただけです。私なんて、それに色を置いただけですから……」
すると世津子先輩は、小さく息を吐いて口を開いた。
「玲子さんね……彼女、ここしばらく様子がおかしいように感じておりますの」
私は、その言葉に思わず目を丸くした。
隣に座っている良子も、同じような顔をしている。
「初音さんは、最近、玲子さんに変わったご様子を感じていらっしゃるかしら?」
世津子先輩の問いかけは、少し唐突だった。
この1週間近く、私が玲子先輩と同じ部屋で過ごす時間は、たしかに多かった。
とはいえ、変わったことと言われても、すぐには思い当たることがなかった。
もしあるとすれば――
誰かの視線を感じて、少し怯えていたように見えたこと。
けれど、それも玲子先輩ご本人が、ひどく敏感に反応しているようには思えなかった。
むしろ私の方が、その視線に対して敏感になっているのではないかと思えるくらいだった。
けれど、世津子先輩の次の言葉には、意外な響きがあった。
「彼女ね、最近“心ここにあらず”という感じがしますの。私たちは同学年で、学院でも同じ時間を過ごすことが多いでしょう? だから、余計にそう感じるのかもしれませんけれど――」
たしかに、私よりも、世津子先輩のような同級生の方が、学院で玲子先輩と過ごす時間は長いはずだ。
登下校の時も。
授業の時も。
短い休み時間でさえ。
世津子先輩が玲子先輩と共有している時間は、私よりずっと多いに違いない。
そんな世津子先輩の言葉だからこそ、妙に胸へ沈んできた。
私は、もう少し具体的に訊いてみることにした。
世津子先輩の話では――
玲子先輩は授業中、教師から質問を受けても、どういうわけか見当違いの答えをしばしば口にするようになったらしい。
また、学校内の場所や、人や物の名前を間違えることもあるという。
そして、まるで玲子先輩の中にあった記憶のいくつかが、ぽつぽつと抜け落ちてしまっているように見えるのだと。
私が一緒に過ごしたこの1週間ほどの間に、そのように感じたことは一度もなかった。
けれど、世津子先輩が嘘を言っているようには見えない。
私の胸の奥で、何かがざらりと音を立てた。
*
その日の夜――
玲子先輩は「夕方には戻れる」と言っていたのに、夕食の時間になってもお姿を現されなかった。
他の学生たちは夕食の時間までには緋色舎へ戻ってきていて、いつものようにテーブルを囲んでいた。
「玲子さん、どうなさったのかしら?」
世津子先輩が、曇った表情で声を漏らした。
私を含め、他の学生たちも、どことなく不安げな様子を隠しきれていなかった。
壁に掛かっている絵は、白い電灯の光を受けて、昼間より沈んだ色味を帯びていた。
赤も、青も、白も。
昼に見た時より、どこか深く、重く見える。
そして玲子先輩が戻ったという知らせもないまま、時間だけが過ぎていった。
きっと、ご実家での用事が長引いているのだろう。
私はそう自分に言い聞かせながら、ベッドの中で眠りについた。
不思議な夢を見た――
玲子先輩が、あらぬお姿で、あの通学路の途中にある彼岸花の群れの中へ、ゆっくりと進んでいくのだ。
ちょうど、玲子先輩がモデルになったあの絵の中のお姿。
薄い布だけを纏ったお姿だった。
「玲子先輩! お待ちください!」
私は声を張り上げながら、玲子先輩の後を追っている。
けれど不思議なことに、玲子先輩の歩みは緩やかなのに、私がどれだけ全速力で走っても、少しも追いつけない。
弾む息。
喉の熱。
大きく前へ伸ばした右手。
それだけが、妙に鮮明だった。
やがて玲子先輩の前方に、1人の殿方が立っているのが見えた。
顔は白く眩しい光に覆われていて、細かなところまではわからなかった。
その中で辛うじて見て取れたのは、背の高い、すらりとした体つきと、黒い詰襟の輪郭だけだった。
玲子先輩は、その殿方の前まで進むと、ぴたりと足を止めた。
すると、その殿方を包んでいた白い光がふっと強まり、次の瞬間には、玲子先輩の姿がその腕の中へ吸い寄せられたように見えた。
「玲子先輩! いけません!」
悪い予感がした。
私は不意に、そう叫んでいた。




