第10話 花の中の少女
玲子先輩が緋色舎へ戻らなかった翌日――
月曜日。
この日は朝から小雨がぱらついていた。
よく見なければわからないほど細い雨が、緋色舎の窓に小さな水滴を落としていた。
目覚めは、ひどく悪かった。
玲子先輩がどこか遠くへ行ってしまう夢を見たせいだ。
夢の中で私は、たしかにその背を追っていた。
けれど、どうしても追いつけなかった。
朝食をとるために食堂へ降りても、やはり玲子先輩の姿はなかった。
連絡もないらしい――世津子先輩が、管理人のご夫婦からそう聞いたという。
誰も、必要以上には口を開かなかった。
壁に掛かったあの絵だけが、白い電灯の下で静かに佇んでいた。
彼岸花の赤も、空の青も、朝の雨空のせいか、どこか沈んで見えた。
重く垂れ込めた空気の中で朝食を済ませると、午前7時20分には、同級生の笹田良子と森裕子と一緒に緋色舎を出た。
傘を差していても、細く小さな雨粒が、着物や袴に纏わりついてくる。
そして私は、その朝、一生忘れることのできない光景を目にすることになった。
*
いつもの通学路の途中、私は右手に見える彼岸花の群生へ目をやった。
昨夜の夢が、まだ胸の底に残っていたからだ。
すると、100メートルほど離れた場所に、やや急な斜面が見えた。
そこにも、彼岸花が群れて咲いていた。
けれど、その赤の中に、“白い何か”が置かれているように見えた。
さらに、私たちのいる歩道からその場所へ繋がるように、彼岸花を押し倒して細い道ができていた。
真っ赤な絨毯の中に、弧を描くような形で。
その時、胸の奥がひやりと冷えた。
よく見ると、その道は“白い何か”を運ぶために作られたように見えたのだ。
私の心臓が、ばくばくと音を立てた。
喉の奥が、急に狭くなった気がした。
嫌な予感がした。
それなのに、目を逸らすことができなかった。
私は良子と裕子を促し、彼岸花の群れの中にできたその細い道を、足早に進んでいった。
数メートル手前で、“白い何か”の正体がわかった。
角度が30度近くありそうな斜面に、1人の女性の姿があった。
身に着けている薄い白い衣は雨に濡れ、ほとんど透けるようになっている。
けれど、身体を覆い隠すように、彼岸花の花弁があちこちに貼りついていた。
左脚は不自然に折れ曲がり、それに合わせるように右腕もおかしな角度を示している。
さらに奇妙なことに、その上半身の両脇にある何本かの彼岸花が、まるで羽を広げたような形に折られていた。
目は大きく見開かれていた。
だが、雨雲から落ちてくる弱い光を受けて、白く濁っていた。
半開きの口元からは、小雨にも流されていない黒ずんだ赤が、細い筋を引いていた。
白い首筋には、濃い紫の線が1本、くっきりと走っていた。
私も、良子も、裕子も、悲鳴を上げようとした。
けれど、声が出なかった。
こんな時に人は、本当に叫びたいのに叫べないものだと知った。
その女性は――
玲子先輩だった。
何度も見てきた顔だ。
見間違えるはずがない。
そして、私が玲子先輩の変わり果てた姿を見たその瞬間――
“美しい”と思ったのだ。
不謹慎だとは思う。
思うのに、私の心のどこかでは、たしかにそう感じてしまった自分がいた。
彼岸花の赤。
白い衣。
折れた手足。
羽のように折られた花。
まるで、誰かが残酷なやり方で、1枚の絵を仕上げてしまったみたいだった。
一昨日まで、玲子先輩は絵の前で笑っていたのに。
私のすぐ隣で、筆を持っていたのに。
それなのに今、玲子先輩自身が、彼岸花の中に置かれた“絵”のように見えていた。
*
「ひ、人を……人を呼びに行かなきゃ!」
最初に我に返ったのは良子だった。
その声で、目の前の“死”がようやく現実の形を取り始めた。
私はそこで、「わあ」と声を上げ、それと同時に、堰を切ったように涙が溢れ出した。
たぶん、他の2人の方が私よりずっと冷静だった。
裕子が私の手を強く引き、来た道を戻り始めた。
ちょうど2回生の3人が緋色舎を出てきたところだったので、私たちは舎へ戻って事情を伝えた。
その場に居合わせた3回生たちも、管理人のご夫婦も、たちまち狼狽して大きな騒ぎになった。
ご主人が警察へ知らせた。
30分も経たないうちに、数名の警官たちが緋色舎に現れた。
現場となった彼岸花の咲く場所にも、別の警官たちが集まっているようだった。
ちょうど登校の時間帯で、学生たちがちらほら集まり始めていたから、緋色舎の中にいても、外のざわめきが耳に入ってきた。
1回生の私たち3人は、第一発見者ということで、いろいろなことを訊かれた。
うまく言葉が出なかった。
警官たちが私たちを疑っていないことくらいは、何となく感じていた。
けれど、つい先ほど目にした玲子先輩の亡骸が、脳裏に焼き付いたまま離れなかった。
忘れようとすればするほど、その光景はかえって鮮やかに甦ってくる。
紫の線。
白く濁った目。
赤い花弁。
そして、あの“美しい”という、許されない感想まで。
何度も同じことを訊かれるたび、その光景はなおさら鮮明になった。
*
ようやく警察から解放されたのは、1時間ほど経った午前9時過ぎだった。
私はふと緋色舎の外へ出て、様子を窺った。
小雨はもう止み、灰色の雲間からは細い光が射していた。
遠くの彼岸花の方へ目をやると、まだ人だかりができていた。
近づいてみると、玲子先輩がいた斜面の辺りには、制服姿の警官たちの姿が見えた。
もうそこに玲子先輩はいないのだと、頭ではわかっている。
けれど、目を凝らせば、まだあの白い姿が残っているような気がした。
不意に胸が苦しくなった。
しばらくして、また涙が溢れてきた。
私は着物の袖で目を擦りながら、緋色舎へ戻った。
そして、ご主人から告げられた。
今日、学院は休校になると。
玲子先輩のいない朝が、こうして始まってしまったのだ。




