第8話 見てはいけない向き
土曜日は午前中で授業が終わった。
学院内で昼食をとってもよく、あるいは帰宅してもよいことになっている。
緋色舎を管理しているご婦人が、いつも私にお弁当を持たせてくれる。
この日も例外ではなかった。
大半の学生たちが家へ帰っていく中、同じ緋色舎の学生である笹田良子と森裕子と一緒に、空いた机を寄せ合って昼食をとっていた。
こんな真似ができるのは、午前中で授業が終わる土曜日だけだ。
他の日は、自分の席で静かに食事をするよう言われる。
けれど、土曜日だけは少しだけ空気が緩む。
学院側も、この日ばかりはそこまでうるさく言わない。
「今日も絵の制作に励まれますの?」
良子がそう訊いてきた。
「ええ。あと少しで完成ですの。必ず、よい絵に仕上げてみせますわ」
私はそう答えた。
「ところで、まだ初音さんが描いていらっしゃる絵……私たち、見たことがありませんわ」
裕子が、私の方へ少し身を乗り出して口にした。
その目には、はっきりと好奇心の色が混じっていた。
正確には、“私が描いている絵”ではない。
“玲子先輩と私の2人で描いている絵”だ。
「よろしければ、私たちも一度見てみたいわ。東の平屋にあるのでしょう?」
今度は良子まで、そう言った。
見せたところで罰が当たるものでもない――私はそう考えた。
そして次の瞬間には、もう声を出していた。
「では、お食事の後で参りましょうか」
*
教室で昼食を済ませた後、私は良子と裕子を連れて、敷地の東側にある平屋まで足を運んだ。
実のところ、彼女たちに促されなくても、午後からはあの部屋で絵の制作に取り掛かるつもりでいた
昨日は、水城先生が去った後――どうしても身が入らなかった。
筆を取って色を塗ろうとした、その瞬間に、花の隙間に“妖精”の姿を意識してしまう。
普段なら見えないはずのものが、見えてしまいそうな感覚に陥ってしまったのだ。
気が滅入ってしまい、私はほとんど作業を進められないまま、荷物を纏めて部屋を出て、そのまま緋色舎へ戻ってしまった。
けれど、今日は違う。
今日は、少しでも完成へ近づけたいという気持ちが強かった。
土曜日だから、幸いにも日暮れまで時間はたっぷりある。
そういえば、玲子先輩はいつ戻ってくるのだろう。
今朝も緋色舎にはお姿がなかった。
舎にいる他の学生たちも、いつ戻るのかは知らない様子だった。
*
「図画部」と書かれた、玲子先輩の達筆な看板の下の扉を横へ滑らせた。
そして、目に入った光景に、私は「あっ」と小さく声を漏らした。
驚いていたのは私だけではない。
続いて入ってきた良子も裕子も、まったく同じ様子だった。
何と、玲子先輩が、私たちに横顔を見せる形で椅子に座っていたのだ。
イーゼルに立てた画板へ向かい、色を置いている最中だった。
「玲子先輩、戻っていらっしゃったんですね」
私は、自分でも驚くほど弾んだ声を出していた。
「あら、初音さん、いらっしゃったのね。それに……良子さんに、裕子さんも」
玲子先輩は椅子に座ったまま、私たちの方へ顔を向け、柔らかな声でそう言った。
「はい。今日こそは、絵を完成させたいと思いまして。良子さんと裕子さんは、私たちの絵を見たいと申しましたので、連れて参りました」
後ろに目をやると、2人はひどく緊張した面持ちだった。
まさか玲子先輩がいるとは、思ってもいなかったのだろう。
「ちょうど色付けが済んだところよ。いらして」
そう言って、玲子先輩は私たちを手招きした。
色付けは終わっていた。
彼岸花の赤。
空の青。
そして入道雲の白。
私は思わず息を呑んだ。
半分ほどは自分で色を置いたはずなのに、こうして完成した色合いを改めて目にすると、たしかに素晴らしい出来栄えだった。
良子も裕子も、「わあ」と小さく息を漏らしながら目を丸くしている。
素直に感動しているのは、見ていてよくわかった。
*
良子と裕子は、しばらくすると恐縮したのだろう、玲子先輩に一礼して部屋を出ていった。
そうして部屋の中には、これまでと同じように、玲子先輩と私の2人きりが残った。
玲子先輩の隣へ椅子を移し、私は彼女と並ぶ。
私は、この時間がものすごく好きだった。
憧れの先輩と並んで、ひとつのものを仕上げていく、この時間が。
「いよいよ仕上げですわね」
私は玲子先輩と一緒に、画板の表面へ仕上げ用の保護液を薄く塗り始めた。
その間にも、私たちはぽつりぽつりと言葉を交わした。
どうやらご実家に呼ばれた理由は、“縁談”の話だったらしい。
たしかに、私たちの年頃なら、そろそろ降って湧いてきてもおかしくない話ではあった。
けれど、その途中で、玲子先輩の何気ない一言が耳に残った。
「私って……皆さんが思っていらっしゃるような女じゃありませんのよ」
軽い冗談のようにも聞こえた。
けれど、玲子先輩の表情は、その一瞬だけ、微かに陰ったようにも見えた。
窓際から射し込む午後の光が、玲子先輩の白い顔を、よりいっそう白く照らしていたせいかもしれない。
私は何か返したかった。
けれど、その時はうまい言葉が見つからなかった。
*
1時間ほど経つと、表面が乾いた。
布張りの画板の表面が、薄く上品な光を帯びている。
「では、ひとまず額に入れてみましょうか。初音さん、手伝ってくださる?」
玲子先輩はそう言って、イーゼルから画板を外し、部屋の中央のテーブルの上まで運んだ。
私は部屋の奥に置いてあった、布に包まれた額縁のところまで足を運んだ。
そして、玲子先輩にも手を借り、それをテーブルの上へ運んで、丁寧に布を外した。
ちょうど画板がぴたりと収まる寸法のようだ。
分厚い金色の縁には、奇妙な模様が左右非対称に施されている。
統一感があるようには、どうしても見えない。
それなのに、目を離しにくい。
妙に心を惹かれる、不思議な額縁だった。
私が絵を額へ入れようとした、その時だった――
「いけません!」
私は思わず身体をびくりと震わせた。
玲子先輩のこんな声色を聞いたのは、初めてだった。
何事かと思って私が顔を向けると、玲子先輩はすぐに、いつもの柔和な口調へ戻って説明してくれた。
額縁の長辺の片側に、蝶と思われる意匠が施されている。
こちらが上側になるのだという。
それにしても、妙な話だった。
一見するとばらばらで、統一もないように見えるのに、上下の向きだけはきちんと決まっているとは。
「何か理由があるのでしょうか?」
私は思わず口にしていた。
すると、玲子先輩はこう言った。
「“額縁を戴いた方”から、そう言われているのです。決して額を上下逆さまにしてはいけないと――」
どういう意味だろう、と私が考えかけた、その時だった。
玲子先輩は、さらに続けた。
「絵を入れてからは、もっと注意するようにとも言われています。この額に絵を飾ると、必ず“見てはいけない向き”が生まれる、と」
見てはいけない向き――
その言葉だけで、私の背筋に冷たいものが走った。
けれど私は気を取り直し、言われた通りに額の向きを整えて、絵をはめ込んだ。
額の意匠も相まって、たしかに見事な見栄えではある。
けれど、先ほどの玲子先輩の言葉が、耳の奥に残ったままだった。
私は意識して、絵を上下逆さまの向きからは見ないようにした。




