第7話 花の中の妖精
翌日から、私は玲子先輩と一緒に、絵の制作に取り掛かった。
咲き誇る彼岸花の背景に、高くそびえる入道雲――季節をひとつに定めることのできない、不思議な絵柄だった。
作業は、学院の授業が終わってから日が暮れるまでの、およそ2時間。
ここ数日、玲子先輩と手分けしながら、木枠に張った画布に写した下絵に、少しずつ色を重ねていった。
黄島先生も時折部屋へ足を運び、絵の進み具合を確認していた。
けれど、特に何かを口にすることはなかった。
この作業を始めて3日目の金曜日――
その日の朝食の時、玲子先輩から、終業後にご実家へ戻るよう言われていると聞いた。
今夜はご実家で過ごすそうで、緋色舎にも戻らないらしい。
玲子先輩のいない緋色舎の夜は、私にとって初めてだった。
ご実家の用事なら仕方のないこと――そう思おうとした。
けれど、胸の奥には、紙やすりで軽くこすられたようなざらつきが残った。
しかも朝礼で、水城先生から、
「黄島先生は本日、所用があってお休みされます」
との連絡があった。
ということは、今日の夕方の作業は私ひとりですることになる。
色付けは、玲子先輩と相談しながら進めて、もう8割近くは終わっていた。
このまま私が今日中に仕上げてしまえたなら――
戻ってきた玲子先輩は、驚くだろうか。
それとも、喜んでくれるだろうか。
そんなふうに、先へ先へと急いでいる私がいた。
*
授業が終わり、東の平屋へ向かう私の足取りには迷いがなかった。
部屋に入ると、私はイーゼルの前の椅子に腰を下ろし、画板にかけてあった白い布を外した。
目の前に、未完成の絵が迫ってくる。
彼岸花の赤は、もうほとんど塗り終わっていた。
後は背景となる空の青と、湧き上がる入道雲の白を入れれば、この絵はほぼ完成だった。
そう思いながら筆を取ろうとした、その時――
私はふと気配を感じ、部屋の入口の方へ目をやった。
扉の向こうから、床板を踏む足音がゆっくりと近づいてくる。
そして、扉の前で止まった。
こんこん。
扉を叩く音が、乾いて響いた。
誰だろう。
今日は、玲子先輩も黄島先生もいないはずなのに。
「はい」
私は少しだけ緊張した声で口にした。
扉が擦れる音がして、ゆっくりと横へ開いた。
「お邪魔してよいかしら」
そう言って入ってきたのは、水城先生だった。
「私も図画には少しばかり心得がありますので、つい足を運んでしまいました。それに……黄島先生のご指導の成果にも興味がありましてね」
そう言いながら、水城先生は立ち上がった私の方へ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
純粋な好奇心なのだろうか。
それとも――もっと別の思いがあるのだろうか。
わざわざ黄島先生のいない時を選んで訪れたことに、私は小さな引っかかりを覚えた。
水城先生は私の横に立ち、イーゼルに立てかけられた絵をじっと見つめた。
「ほう」
と小さく口にし、少し前かがみになって右手で顎に触れた。
しばらく、絵の隅々まで目でなぞるように見ていたが、やがて不意に口を開いた。
「この絵の元になった図案……どなたがお描きになったのかしら」
私は一瞬、目を丸くした。
その問いには、どんな意図があるのだろう。
少し間を置いてから、私は答えた。
「黄島先生と、玲子先輩です」
水城先生の目が細められた。
その後も、先生は絵の隅々を観察しているように見えた。
やがて、水城先生が口を開いた。
「これは……咲き誇る彼岸花の絵、という理解でよろしいのかしら」
またしても意味ありげな問いだった。
水城先生には、“彼岸花以外の何か”が見えているとでもいうのだろうか。
そういえば、私も同じ違和感を持っていた。
たしかに、たくさんの彼岸花を描いた絵だ。
それは疑いようがない。
けれど、じっと見つめていると、花と花の間の余白が、“何か”の形に見えることがある。
ものすごく小さな、まるで羽があるような“何か”に。
私は思い切って、水城先生に尋ねてみた。
「水城先生は、何か別の形が見えていらっしゃるのですか」
「そうね……でも……」
水城先生は、何かを言いかけて、その言葉を喉の奥に引っ込めたようだった。
目は、まだ正面の絵に向けられたままだ。
しばらくして、水城先生は小さく息を吐き、私の方へ向き直って言った。
「初音さん……この絵は、あなたたちが思っているより、もっといろいろな意味を持っているのかもしれないわ」
私は、その言葉を聞いてもすぐには理解できなかった。
先生が何を見て、何を知っているのか。
その意味がはっきりわかるのは、もう少し先のことになる。
水城先生はそれだけ言うと、部屋を後にした。
先生の目に何が映っていたのか――この時の私には、わからないままだった。
私は気を取り直し、椅子に腰を下ろして、絵を正面から見据えた。
赤く塗られた花々の、その余白へ、不意に目をやる。
気のせいかもしれない。
けれど、その時、私はふと思った。
昔、母から贈られた外国の絵本に出てきたもの。
“妖精”だ。
それに似ている。
花びらと花びらの間、赤と赤の隙間に、とても小さな何かが潜んでいる。
羽をたたんで身を寄せているようにも見えるし、こちらを窺っているようにも見える。
もちろん、本当にそんなものがいるはずはない。
けれど、いったんそう思ってしまうと、ただの余白には戻らなかった。
だから、私は思った。
赤い彼岸花の群れの中には、小さな“妖精”が隠れているのではないか、と。




